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ここ何日かブログのカテゴリーをいじっています。
ご覧になればわかりますが、「歴史の話をしよう」で一つカテゴリーを作りました。
ブログタイトルの下にも「+」がついています。

「君主online」のカテゴリーで300回を超えましたが、
「歴史の話をしよう」でもたくさん話ができればいいですね。

アップしたつもりがしていなかったので、この人から。
父と兄、弟三人の計五人が信長の天下取りのために戦死、
自身も秀吉のために戦死するという激しい家系である。


戦国人物紹介

022 森長可 【もりながよし】 1558-1584

初め勝蔵。名は長一、可長とも。武蔵守。森可成の二男。
信長の小姓として有名な森蘭丸の兄である。

1570年、父可成の戦死にともない森家の家督を継ぎ、美濃兼山(金山)城主。
1574年頃より信長の嫡子信忠の軍に属し、東美濃の有力武将の一人となる。
以後は信忠に従って、伊勢長島攻めなどに加わる。
1582年の武田攻めでは信忠軍に従軍。団忠正とともに先鋒となり、
高遠城を初め、信濃の諸城を次々と降し、上野にも攻め入る。
戦後、戦功により信濃四郡を賜り、海津城に在城する。
このとき飯山で一揆が蜂起するが、ことごとくこれを破る。
「鬼武蔵」と呼ばれたのはこれらの働きによるものだろう。

同年、本能寺で信長とともに弟蘭丸、坊丸、力丸の三人が討ち死にする。
この知らせを聞いた長可は仇を取るべく手勢を率いて上京しようとするが、
一揆が起こったために出陣が遅れ、鎮圧した頃には上方の戦は終わっていた。
自分の手で、主君や三人の弟の仇を討てず、さぞ無念であったろう。

その後、信濃は徳川、上杉、北条による激しい奪い合いが起こり、
長可は海津を退去して旧領美濃兼山に戻った。
美濃国守織田信孝(信長の三男)と秀吉が対立すると、信孝を離れて秀吉につく。
小牧・長久手の戦いにおいても秀吉方に属すが、徳川軍と戦い戦死。
森家は末弟の忠政が継ぎ、のちに美作津山で十八万石余を領した。

 
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なぜ信長の寵愛があったか謎
後世の創作ももちろんあるだろうけど、
破天荒な性格で、かつ、周りにそれなりに迷惑をかけてたみたいだから、小牧・長久手での戦死もある意味、秀吉の策略かもね。。。
とはいえ、信長が生きていたら、
中心勢力の一人として活躍してたでしょうね。この人は。。。
ぼっこ 2010/04/26(Mon)21:00:09 編集
無題
ゲームの能力的には微妙なんですよね。

覇王伝 戦闘78/100
将星録 戦闘152/200
烈風伝 戦闘67/100(職業・茶人?)

だんだん平凡な能力になっていきます・・・。

舅(妻の父)の池田恒興に引っ張られた側面はあるのでしょうが、秀吉としては将来煙たくなりそうな存在が消えて、代替わりした池田家・森家を家臣化したんですから、結果的にはうまくいきましたね。
Rakuna 2010/04/27(Tue)19:34:48 編集
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