忍者ブログ
君主onlineブログ+
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

負け戦こそおもしろい、と殿軍(しんがり、軍の退却時に最後尾にあって
退却を支援する部隊。敵の追撃に遭うので大きな損害を受ける可能性が高い)
を務める傾奇者(かぶきもの)もいましたが・・・。

お互いが気を張っている戦闘中というのは案外死者は出ないもので、
戦死者が出るのは退却するときに敵の追撃を受けたときの方が多いのです。
周りの味方は逃げていく、という敗勢の中にあって、踏みとどまって部隊を維持する、
というのは困難なことです。

黒べぇグランプリでも、もう上位に届きそうにない、とあきらめそうになる
国民を鼓舞して、戦いを続けさせることは難しいのです。

小牧・長久手の戦いで、膠着した戦線を打開するために、
三河「中入れ」を実行し、徳川軍の後方に侵入した秀吉軍の別働隊ですが、
徳川軍の追撃を受け、大将の秀次は敗走、池田恒興、森長可の二人も戦死します。
そんな中で戦場に踏みとどまって徳川軍と戦い、戦場から逃れた武将がいます。

戦国人物紹介

023 堀秀政 【ほりひでまさ】 1553-1590

菊千代、久太郎。左衛門督。
秀重の子。堀家は美濃の斉藤氏に仕えたが、秀政のときに織田家に属す。

秀吉は、小田原攻めで北条氏を滅ぼした後の関東には家康ではなく秀政を配置しようとした、
という説もあるほどで、蒲生氏郷らと同様に早世を惜しまれたため、実力以上に評価されている
可能性はあるが、治めてよし、攻めてよし、守ってよし、の良将である。

若くして信長に近侍し、官僚的な活躍が多い(のちの森蘭丸なども同じ)。
内政面、軍政面で学ぶところが多かったのだろう。
本能寺の変後、こういった人物がいち早く秀吉に味方したことが、
天下取りに幸いしたと言える。
羽柴一族以外ではもっとも早く羽柴姓を称することを許されたとされる。

山崎の戦い、柴田攻め、小牧・長久手の戦いに従軍。
三河中入れの軍に加わるが、味方が大敗する中にあってよく持ちこたえ、
榊原康政らの軍を退けて退却に成功している。

1585年、越前北庄十八万石余を与えられ、与力として村上義明、溝口秀勝を付けられる。
世に「名人」と言われたのは越前での治績による。
治世を非難する高札にも素直に従い、行いを改めたという。
名人という言葉には戦巧者の印象があるが、当時では「名君」の意味に近い。

その後、九州攻め、小田原攻めにも参加するが、
1590年、小田原攻めの陣中にて病死。その死を惜しまぬ者はいなかったという。

以下は秀政の逸話である。

北庄の城を修築するときに、弟の多賀出雲守秀種と意見の対立があり、
秀種は出奔してしまうが、これを聞いた秀政は「不便の事なり、道にこそ飢えけれ」と
黄金十枚を取り出してきて、家来を走らせて秀種に持たせたという。
さて、秀政は黄金を包んでいた紙を、みずから一枚ずつしわをのばして箱に納めると、
近侍する小姓たちに向って言った。
「およそ財は用いるべきに当たりては、十枚の黄金惜しむに足らず、無用の事ならんには、
この紙十枚をもみだりに費やすべからず、なんじら我を卑しいと思うことなかれ」と。
(使うときに当たっては十枚の黄金も惜しんではならない、そうでないときには紙十枚といっても
無駄に使ってはならない)

九州攻めのときには次々と島津方の城を落とすが、島津方の兵を捕らえると、
こう言って解き放ってしまった。
「せっかく九州まではるばるやってきたのに、敵が弱くて休む暇もない。
せめてもう三日は城を持ちこたえさせてほしい」
このときには中央と九州では兵質自体に差がつきすぎていたということか。

小田原攻めが始まろうとするときは、戦いに先立って家来を派遣。
伊豆、相模、駿河、遠江の各地で牛を数十頭買い集めさせておいた。
いよいよ戦いが始まると、秀吉方の軍勢が小田原を攻めるべく箱根の山を越えていったが、
箱根路は天下の険と言われるほどの難路である。
多くの武将は武器や食糧の輸送に難渋した。
しかし、秀政はあらかじめ運搬用の牛を買い集めていたため、苦労せずに越えていったという。

 
PR
ここ何日かブログのカテゴリーをいじっています。
ご覧になればわかりますが、「歴史の話をしよう」で一つカテゴリーを作りました。
ブログタイトルの下にも「+」がついています。

「君主online」のカテゴリーで300回を超えましたが、
「歴史の話をしよう」でもたくさん話ができればいいですね。

アップしたつもりがしていなかったので、この人から。
父と兄、弟三人の計五人が信長の天下取りのために戦死、
自身も秀吉のために戦死するという激しい家系である。


戦国人物紹介

022 森長可 【もりながよし】 1558-1584

初め勝蔵。名は長一、可長とも。武蔵守。森可成の二男。
信長の小姓として有名な森蘭丸の兄である。

1570年、父可成の戦死にともない森家の家督を継ぎ、美濃兼山(金山)城主。
1574年頃より信長の嫡子信忠の軍に属し、東美濃の有力武将の一人となる。
以後は信忠に従って、伊勢長島攻めなどに加わる。
1582年の武田攻めでは信忠軍に従軍。団忠正とともに先鋒となり、
高遠城を初め、信濃の諸城を次々と降し、上野にも攻め入る。
戦後、戦功により信濃四郡を賜り、海津城に在城する。
このとき飯山で一揆が蜂起するが、ことごとくこれを破る。
「鬼武蔵」と呼ばれたのはこれらの働きによるものだろう。

同年、本能寺で信長とともに弟蘭丸、坊丸、力丸の三人が討ち死にする。
この知らせを聞いた長可は仇を取るべく手勢を率いて上京しようとするが、
一揆が起こったために出陣が遅れ、鎮圧した頃には上方の戦は終わっていた。
自分の手で、主君や三人の弟の仇を討てず、さぞ無念であったろう。

その後、信濃は徳川、上杉、北条による激しい奪い合いが起こり、
長可は海津を退去して旧領美濃兼山に戻った。
美濃国守織田信孝(信長の三男)と秀吉が対立すると、信孝を離れて秀吉につく。
小牧・長久手の戦いにおいても秀吉方に属すが、徳川軍と戦い戦死。
森家は末弟の忠政が継ぎ、のちに美作津山で十八万石余を領した。

 
カーリングおもしろい!

解説者が熱くなるのもわかりますw


マーケット(売り買い)の基本ですが、

安く買って高く売る、これにつきます。


君主というゲーム、ほかのMMORPGに比べると、

マーケットの使い勝手がいいとの話を耳にします。

マーケットがほとんど機能せず、誰かに作ってもらわないと装備もアイテムも

そろわないゲームもあるとかないとか。

その点、君主のマーケット機能はすぐれています。

売っていないときは売っていないけどね!w


021 池田恒興 【いけだつねおき】 1536-1584 (後編)
 
さて、膠着した戦線を打開しようと、秀吉方は秀次を大将に、恒興、森長可、
堀秀政らをつけて三河国へ「中入れ」を実施させる。
恒興は信長の乳兄弟として育ち、織田家に近い存在と見られていたため、
ことさら秀吉方として戦う必要があったのである。
この「中入れ」作戦も秀吉の案という説のほか、
恒興・森らが戦功を立てるために秀吉に願い出たという説もある。

徳川方の後方をついて、三河に侵攻しようという壮大な作戦であるが、
これを察した徳川方は追撃を開始、秀次軍は敗走し、森長可は戦死する。
恒興は踏みとどまる堀秀政の軍と合流しようとするが果たせず、
徳川方の永井伝八郎直勝に討たれた。
恒興の長男紀伊守之助も安藤彦四郎直次に討たれてしまう。
なお、永井、安藤とものちに幕臣として活躍する人々である。

このとき戦場に取り残されたのが恒興の二男輝政(当時は照政)である。
姫路城の城主として有名な人物であるが、彼も父や兄とともに参戦していた。

輝政は父と兄が討たれたと聞いて、一緒に討死せんとするも、
家臣の伴大膳景次が輝政の乗る馬の口にすがり、引き戻して一鞭当てる。
輝政は怒って、「なんとわからないやつだ」と景次を蹴り飛ばすが、
景次はひるまず、「若殿こそ、わかっておられませぬ」と馬の轡をしっかりつかんで
離さない。輝政は激怒し、なおも景次の頭を血が出るほどに蹴るが、景次は離さない。

家臣も必死である。池田家の跡取りがいなくなれば家は滅び、
家臣は浪人してしまうのである。こうした家臣の働きで輝政は戦場を逃れる。
のちに景次も子の氏明も池田家の家老となった。

さて、1594年、輝政は家康の娘である督姫をめとるが、その際に徳川家臣の
永井直勝を招いた。父恒興の首を取ったのが直勝である。
輝政は直勝に父の最期を語らせたが、永井の石高が五千石しかないと聞いて、
「父の首には五千石の価値しかないのか」と嘆いたという。

この話、家康が自分の家臣には非常に少ない領地しか与えなかった(はっきり言って
「ケチ」だった)ことに留意する必要があるが、これについては徳川四天王の一人、
榊原康政のときにあらためて触れることにしよう。
 
斬鉄を100本ほど売って、光沢剤以外の材料はそろいましたが、

ユリの根がマケにない><


二日休んで溜まった仕事を(昨日までの)二日でやっつけて、

今日も夕方は違うことやっていて、ほぼ定時で終わり、

って、毎日半分しか働かなくてもいいってことですか?

さあ、まじめに働かないと首が危なくなってくる季節ですw


いろいろと経営者の立場にある人、と話す機会があるのですが、

中には商売の才能がない人もいます。

先代からの商売を引き継いだのですが、

仕入れの数字管理もできないし、営業で成績を上げることもできません。

雇われならともかく、経営者でそれはどうなのかと。


大きな会社なら補佐する人間もたくさんいるでしょうし、

自社の製品の単価がいくらで、粗利がいくらかなんて知らなくてもいいのかもしれません。

(もっと重要な、経営者にしかできない仕事があるでしょう)

ただ、個人事業主規模で、経理も営業も(ほかにもあるけど)

できません、というのでは話になりません。

赤字垂れ流して借金だけ増えていっても、いずれ会社は潰れます。

社員がいればいずれ路頭に迷わせることになります。


書きたいことがあるから書くのでしょうが、

隠したいことがあるから、別のことを書くということもあるでしょう。

資料を批判的に読むということは重要です。

(もちろん、資料自体に対する評価が前提として必要)


021 池田恒興 【いけだつねおき】 1536-1584 (前編)
 
勝三郎。紀伊守の任官については不明。子之助(元助)との混同か。
名は後世、信輝とも書かれるが同時代の書には見えない。
戦功により織田信秀(信長の父)より一字を賜って信輝と名乗るともいうが、
この「信」の字と子の輝政の「輝」の字を合わせたものか。
輝政自身、当初は照政と名乗っており、この「信輝」の名乗りは後世の創作であろう。

母養徳院は信長の乳母。
生まれたころから気性の激しかった信長は、乳母の乳首を噛み切り、
乳母が何人も交代するほどだったが、養徳院が乳母になるとおさまったという。
養徳院はその後も信長の乳母として諸将から尊崇され、大御乳様と称された。
1608年、94歳で没す。

恒興は信長の乳兄弟(ちきょうだい)として育つ。幼くして信長に仕え、
一説には信長の弟信勝(信行)が兄にそむくとこれを討ったのが恒興という。

以後、桶狭間の戦いなどに参加するというが、『信長公記』での初見は1561年、
美濃攻めにおける軽海(かるみ)の戦いで佐々内蔵佐(成政)とともに稲葉又右衛門を
討ち取った記事である。その後は伊勢攻め、姉川の戦いなどに参加するが、
1574年頃から信忠軍に属し、東美濃にいたようである。

1578年、突如謀反した荒木村重攻めに森長可(可成の子)らとともに参加して戦功あり、
摂津に城地を与えられる。なお、森長可には恒興の娘が嫁いでいる。

1582年、信長が本能寺に倒れると、秀吉の軍に加わり、引き続き摂津を領す。
信長の死後は剃髪して勝入と号した。

1584年、小牧・長久手の戦いを前に、恒興に旧主織田家の信雄(信長の二男)から
使者が来て、織田・徳川方への参加を要請される。家中でも話し合いとなった。

片桐半左衛門「どうして信長公の御恩を忘れて、秀吉に味方するのでしょう」
伊木清兵衛(忠次、池田家の老臣)「片桐の言うことはもっともだが、そうはいっても、
家名を興し、子孫の繁栄を考えれば、秀吉に味方した方がいいのではないか」
恒興がどうしたらいいか迷っているところに、秀吉からも使者が来る。
「秀吉公にお味方すれば、美濃尾張両国は進退に任せらるべし(両国は恒興に任せる)」

使者のこの言葉に、恒興は秀吉に味方することを決める。
とはいえ、江戸時代に書かれた話なので、額面通りに受け取るわけにはいかない。
徳川を正統とする史観にあっては、ここで恒興が信雄・徳川方ではなく秀吉方に属した
ことは都合が悪いのである。ようするに、家康が秀吉に劣っていたということになる。
そこで、秀吉は恩賞(領地)でもって恒興を誘ったことになっている。
美濃・尾張の両国を与えると言われれば、秀吉方に味方したのもやむをえない、
となるのである。実際、何らかの所領を与えるという約束は両陣営からあったと思われる。
 
エナは一人だけど、他の鯖は三人ずついるはずなのよね。
前回ほど更新に勢いがないかなあ、と。

ssだけとか、コピペだけという記事は容赦なく叩かれるので、
何系の記事を書くのか、方向性を決めてから応募した方がいいんでしょうね。

で、アップデート先行発表会のときで力を使っちゃったのか、
実装されてからの記事があんまりない気が。

ガチャ服の見た目が悪いとか、かわいくないとか、
小悪魔系じゃなくて悪魔じゃねとか、変身したら見た目は関係ないとか、
学生服と同じくらい着るのに悩むというのは、どこかにあったな…。
それでもこんな効果がありまっせ、とか検証してほしいなあ。
当たりの告知が頻繁にあったのも、アプデ後の数日しかなかったので、
スルーしている人も多いのかもしれません。
国内でも何人かしか見かけません。

ガチャ服はいいとして。

先行発表会のときにはもっとも盛り上がったPKダンジョンについても、
新聞では誤爆氏が考察しているだけ。
自分で行って検証してみるしかないのか…。

ブログも更新されている方が圧倒的に少ないのですが、その中で読んだのは、
使っていないサブキャラからの名品移動に使ったという記事くらいかな。

業炎楽の捕獲、ドロップ検証なんかはもうちょっと時間がかかるのかなあ。

アプデなんて運営からの格好のネタ提供でしょう。
新聞記事のネタなんて探せばいっぱいあると思いますよ。


中川清秀のおまけ

賤ヶ岳の戦いについてはいずれ佐久間盛政のときに触れてみようと思うので、
今回の中川清秀の回ではさらっと流してしまいますが、
他の武将と絡めるとなかなかにおもしろい人物です。

本能寺の変で信長が倒れると、それを知った秀吉は中国地方から引き返してくるのですが、
清秀には「信長様も信忠様も、ご無事でいらっしゃる」と偽の手紙を送ってまで、
自陣営に取り込もうとしています。秀吉も必死なんですね。

明智光秀との山崎の戦いで清秀は奮戦しますが、戦いが終わったら、
すでに秀吉は天下人気取りで、清秀には通称の瀬兵衛で呼びかけ、
「おつかれ」とだけ言って通り過ぎてしまいます。
秀吉の立場、心境の変化が読み取れます。

子の秀政が死んだときのエピソードも興味深いものです。
朝鮮で鷹狩りをしていたら、伏兵にかかって死んでしまった、
ということになっていますが、戦場ならまだしも、
遊んでいて敵兵に殺されてしまったなどというのは恥辱この上ないんですね。
秀吉にばれたら中川家はお取り潰しになってしまいます。
いくら後継者で弟がいますと言っても、不名誉なことがあると、
家を継ぐことが許されないのです。

忠臣蔵(赤穂事件)で浪士たちの討ち入りにあった吉良家(大名ではなく高家)では
前当主の上野介義央が首を取られ、当主の義周も応戦して負傷します。
この結果、吉良家は改易されてしまいます。

戦国の世であればいざ知らず、世の中が安定してくると、
秀吉や幕府といった時の政権の承認がなければ、
家を存続させることはできなくなっていきます。
 
| HOME |  次のページ≫
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6
ブログ内検索
プロフィール
HN:
Rakuna
性別:
非公開
自己紹介:
君主online、元朱雀官(二期)
このゲームが終焉を迎えるときまで冬眠しています。
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
リンク
 
 
 
777
 
 
最新のコメント
[11/20 Rakuna]
[11/19 DEBBY]
[11/12 Rakuna]
[11/05 DEBBY]
[08/14 debby]
[05/03 amasiz]
最新TB
バーコード
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]