忍者ブログ
君主onlineブログ+
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

新聞記者のみなさんおつかれさまでした。
脱落者も少なく、最後まで書き続けられた方が多かったんじゃないでしょうか。
次回の記者さんにも期待しています。

報酬はいくらくらいが適切なんでしょうかね。
リアル1ヶ月で1億Qでも、個人的には少ないと思います。
情報量や更新数にもよりますけど。


019 豊臣秀頼 【とよとみひでより】1593-1615

1593年、大坂城で生まれ、のち伏見城に移る。秀吉が死去すると大坂城に入るが、
以後、大坂城を出たのは1611年に二条城で家康と会見したときだけである。
このときは父とは違って「巨体」だったいう話があるが、
両者が具体的にどのような言葉を交わしたのかは伝わっていない。
(大坂城にこもって、大した運動もせずに、食べてばかりいれば太りもすると思うが)

家康は豊臣家家臣の立場から独立して新たに別の政権(江戸幕府)を樹立しており、
豊臣家は、いわゆる幕藩体制と言われる江戸幕府の枠組みの外にいたことになる。
ゆえに、豊臣家の大坂藩というものは存在しない。
(なお、大坂の陣後に数年間だけ松平忠明が在城したことがある。その後は幕府直轄)

二重公儀体制と言われるものだが、家康が将軍となってからも、
福島や加藤ら豊臣恩顧の大名などは年始に当たってはまず大坂の秀頼のもとへ伺候してから、
将軍へ挨拶することを慣例としており、将軍側もそれを黙認していた。

豊臣家は幕府の支配体制のもとにないために、そう簡単には処分できないのである。
幕府がこれを克服する-最終的には武力で討ち果たす-には十年以上の歳月を必要とした。

秀頼は1603年に内大臣、1605年には右大臣となっている。これは家康よりは下だが、
その後継者秀忠よりも早い官位昇進であり、また昇進の早さは摂関家にも劣らない。
朝廷は豊臣びいきと言われるが、武家同士を競わせるというのは、
源平のころからの朝廷の常套手段である。
家康、秀忠、秀頼の官位昇進には朝廷の思惑もうかがえる。
 
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事へのトラックバック
この記事にトラックバックする:
[389]  [388]  [387]  [386]  [385]  [384]  [383]  [382]  [381]  [380]  [379
ブログ内検索
プロフィール
HN:
Rakuna
性別:
非公開
自己紹介:
君主online、元朱雀官(二期)
このゲームが終焉を迎えるときまで冬眠しています。
カレンダー
08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
リンク
 
 
 
777
 
 
最新のコメント
[11/20 Rakuna]
[11/19 DEBBY]
[11/12 Rakuna]
[11/05 DEBBY]
[08/14 debby]
[05/03 amasiz]
最新TB
バーコード
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]