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やると言ったのでやるよ~w


「信長の野望・覇王伝」ではあごひげの長いもっさりした印象だったが、
徐々にパワーアップ。「烈風伝」では兜をかぶった凛々しい若武者姿に。
早世したためか意外と女性ファンは少ないので、
先物買いでファンになるならいまのうちかもw

012 蒲生氏郷 【がもううじさと】 1556-1595

(後編)

天下を争うにはいくつか条件があって、一族や譜代の家臣が多いことは
条件の一つになると考えられる。個人の能力が高いだけでは天下は争えないのである。

信長にしても家康にしても、いざというときに頼りになる一族、家臣は多かった。
信長の父も信長自身も二十人近い子沢山だったし、
家康も、十八松平と言われる一族、また酒井、本多、大久保など
譜代の家臣が天下取りを支えた。

秀吉の場合は、織田政権を引き継いで天下を取ったという点はあるが、
秀吉も他人に「豊臣」や「羽柴」を与えて、豊臣ファミリーにしてしまった。
しかし、これら豊臣ファミリーの人々が、秀吉の死後、
豊臣政権の維持にはほとんど役に立たなかったのは歴史が明らかにしている。

氏郷は近江六角氏の旧臣から信長、秀吉に高く評価されて出世したが、
ほとんど彼一人の働きしか伝わっていない。
部隊長クラスの家臣もいたはずだが、早くに改易されたためであろうか。

氏郷も家臣に「蒲生」や「郷」の字を乱発しているが、
氏郷の死後、子の秀行は若かったため、会津から宇都宮に移され、
領地も削減されてしまい、家臣の多くも蒲生家を去ってしまった。
その蒲生家旧臣を雇い入れたのが石田三成である。

氏郷の最期については秀吉や三成、あるいは政宗などによる毒殺説が根強いが、
一年近く患い、当時の名医である曲直瀬(まなせ)道三らにも
診てもらっていることから、毒殺であればそのときに気付くはずである。

氏郷の辞世の句は有名である。

限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風

(限りがあるから、風が吹かなくともいずれ花は散るのに、春の山風は気の短いことだ)
 

茶道に通じ、利休七哲の一人であった。
また高山右近に勧められてキリシタンの洗礼を受けたこともある。
街作りの才能もあり、伊勢松坂や会津若松の基礎は氏郷に負うところが大きい。
松坂も若松も氏郷の命名によるものだが、地名を変えることに抵抗がない、
というのは亡き主君信長の影響であろう。

大坂を大阪に変えたり(「土に返る」のは不吉)、
隈本を熊本(隈は山に囲まれているの意味。
これからの発展を望むにはいい字ではない)に変えたりするような、
ゲンを担いで文字を変えるということはある。

また、いまでは市町村合併で新しい地名がいくつも誕生しているが、
かつては地名を変えることはタブー視されていたのである。

地名についての話はまたいずれ。
 
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