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しとしとと雨が降り続き、北海道なのにまるで梅雨のようです。

はい、北海道にも梅雨はあります。

しかし、こう毎日曇りか雨だと気持ちも滅入ってきますね。


少し前の話で恐縮ですが、この前の日曜は代行で模擬戦の指揮を執りました。

戦争となると、相手の実力がわからない場合は、

脇汗をかくくらい気合が入るのですが、

今回は指揮官なので、焦らずに淡々と作戦をこなすことに徹しました。


一方、指揮官は指揮官でいろいろと考えることも多いわけですw

今回もヤンパ軍の士気は旺盛だったので、勝ち方にこだわってみたり、

相手が不慣れということもあって、勝ちすぎると、

次からやってくれなくなるかなー、と心配してみたり。


ガチ戦は楽しむ余地がありませんが(はっきり言って仕様がお粗末すぎる)、

模擬戦はやり方次第でまだまだ楽しみ方があるんだろうな、と思います。
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公式HPの表紙で女の子が怒っていますが、
能力の劣る過去のレアなんてどれだけ需要があるんですかね。
(当たっている人は見かけるので、0ではないのでしょうが…)


夏のリクエスト強化週間!


Rq 001 伊東義祐 【いとうよしすけ】 1512-1585

三位入道。日向都於郡(とのこおり)城主。藤原南家工藤氏の一族と言われる。
何かと話題の宮崎県(日向国)の戦国大名。

1536年、兄の死後の内紛を収めて家督を継ぐと、代々続く島津氏との百年戦争に身を投じる。
1568年、日向飫肥(おび)城を落とすが、
1572年、木崎原にて島津義弘の寡兵に大敗、家臣の多くを失い、以後衰退。
1577年、島津氏への内通者が出て、日向を追われる。

ここまで見れば、島津氏に敗れた九州大名の典型ですが、
彼の人生はまだ続きます。

日向を出ると、親戚にあたる豊後の大友宗麟を頼るが、
豊後への道は敵方にふさがれており、山側を大きく迂回することに。
九州とはいえ、冬場の高千穂越えは厳しく、多くの者が脱落、自害する者も多かった。

翌年、義祐の要請もあって日向に侵攻した大友軍だったが、耳川の戦いで島津軍に大敗。
日向回復の望みは断たれる。
そればかりか、豊後での居心地が悪くなり、伊予の河野氏のもとに移り、のち播磨に移る。
子の祐兵(すけたか)はそこで秀吉に仕えたが、義祐自身は出仕を固辞。
以後、中国地方を転々とし、旧臣のいた周防山口に至る。

1585年、病にかかり、祐兵のいる堺に向うが、船内で衰弱し、
困った船頭によって堺の浜に捨てられる。
偶然、祐兵の家臣に発見されて、看病されるもそのまま死去。七十四歳。

飫肥城を落としたあたりがピークだったのか、
佐土原に京風の豪邸を築いて華美にふけっていたといいます。
金閣寺にならって金柏寺を建てたとか、大仏を建立したとか、
地名まで京風に変えたとか、どこまでが本当でしょうか。
国を滅ぼした人間に対する評価は厳しいようです。

しかし、連年島津氏と戦っていて、一時的にでも優勢を保ったことは
評価してもいいのではないでしょうか。
こんな状況で奢侈にふける余裕があったとは思えないのですが。

秀吉に仕えた子の祐兵が九州攻めで戦功があり、日向に復帰。維新まで続く。
伊東家を復興した子の祐兵の方が波乱万丈という感じがします。
 
ランプクエを消化すべく&四つ葉を消費すべく、ひさしぶりに狩りw


004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615

(後編)

軍記物では、家康が真田の大坂入城を聞いて「親か子か」と使者に尋ねたが、
家康のつかんでいた戸ががたがた鳴るほど震えていたので、
使者が「子の方です」と言ったところ、ようやく安堵したという場面が出てきます。

しかし、大坂の陣までの幸村は「昌幸の子」としてしか知られない存在でした。
この話も後世の創作で、無名の子を引き合いに出すのはおかしいですし、
昌幸のことを恐れていたのなら、配流先でどうなったのかを知らないのは不審です。
このへんが軍記物のおもしろおかしく書いているところなのでしょう。

さて、大坂入城の際の幸村は、歯は抜け髭には白いものが混じる初老の姿だった
といいます。このとき四十八歳(翌年、四十九歳で戦死)

幸村自身は豊臣恩顧というほど豊臣家からの恩恵は受けていません。
幕府から信濃一国を与えるとの誘いにも応じなかったと言いますから、
武人としての死に場所を求めて大坂に入ったのでしょう。

戦術家、いわゆる戦場での駆け引きにかけては、幕府軍を窮地に陥れ、
戦国最強ともいえる島津家から「日本一の兵(つわもの)」と評されたくらいですから、
その能力は疑いようのないところです。
ましてや、譜代の家臣などほとんどおらず、浪人衆を率いての指揮能力です。
高く評価していいと思います。

ただし、戦略家としては、父昌幸の才能をどれだけ受け継いだのかは不明です。
大坂の陣は、戦略的にすでに幕府側が圧倒していました。
難攻不落のイゼルローン要塞にこもっていても勝つことはできないので、
勝つためには敵大将の首を獲りに行くしかないわけです。

ただ、家康は翌年鯛の天ぷらに当たって死んでしまう老人であり、
首を狙うならば、二代将軍として幕府の基礎を固めていた秀忠の方が
幕府に与える損害は大きかったのではないかという気はします。
 
子供ができましたw

どんな効果があるのかあとで公式ページ見ておかないと…。


004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615

(前編)

左衛門佐(さえもんのすけ)。実名は武田信玄の弟、
典厩信繁にあやかってつけた信繁(のぶしげ)。
良質の資料で幸村の名が出ているものはいまだ見つかっていませんが、
広く「幸村」で認識されているので幸村を使います。

講談や軍記物での「幸村」が流布したと考えられますが、
なぜ幸村となったのかはいまだに不明です。
「幸」は真田家代々の通字ですが、「村」はよくわかりません。

幸村の娘が伊達政宗の家臣片倉小十郎景綱の息子重長に嫁ぎ、
幸村の子孫も伊達家に仕えたことから、伊達家との関係を挙げる説もあります。
仙台藩伊達家四代目の当主が伊達綱村なので、ここから一文字取って媚びた、
ということなのでしょうが、伊達綱村が初名の綱基から改名したのが1677年。
「幸村」の初出といわれる軍記物『難波戦記』の成立が1672年なので、年代が合いません。

姉村松から取ったという説もありますが、これもはっきりしません。


さて、母は一般に宇多頼忠の娘とされますが、この人の姉妹が石田三成に嫁いでいます。
つまり、真田昌幸と石田三成の関係は、三国志で言うところの、
孫策と周瑜の関係と同じということです(これ以上は書かない)

妻は大谷刑部吉継(吉隆)の娘。上杉家に人質に出されたとすれば直江兼続にも
会っているでしょうから、反徳川の結晶体のような人物と言っていいのかもしれません。

実働は大坂両陣の一年間だけと言っていいのですが、
人気はすでに江戸時代から非常に高いです。
信長、秀吉、家康の天下人と比べても遜色がないくらいです。
ただ、彼ら三人に対しては毀誉褒貶、好き嫌いも激しいのですが、
真田幸村が嫌いという人はほとんどいません。
これには秀頼も含めて判官びいきの面もあるのでしょう。


おまけ

典厩【てんきゅう】
左馬頭(さまのかみ)の唐名(とうみょう、中国風の名称)。
水戸黄門の「黄門」も同様で、黄門(黄門侍郎)は中納言の唐名。
信長の右府(右大臣)、家康の内府(内大臣)、小早川秀秋の金吾(衛門府)なども同じ。
昔は中国風に言うのがおしゃれだったのである。

 
君主の選挙にはあまり関心がないのでリアルの方ですw

「降ろし」に負けずに自力で解散まで持っていった意地は評価します。
同情票でも入るんかな…。
追い詰められた自民党、本当の力が見られるのかな、と。
有権者には民主党に勝たせすぎないようなバランスが働くことを期待します。

003 真田昌幸 【さなだまさゆき】 1547-1611

安房守。徳川キラー。真田パパ。

真田家について語るには昌幸の父弾正忠幸隆から始めなければなりません。
歴史上に突如現れる真田幸隆ですが、武田信玄に属すと、
信玄がただ一人、しかも二度敗れた村上義清を、謀略をもって信濃から追い、
武田家家臣としての地歩を固めます。
以後、北信濃を守り、謙信には「真田がいる限り、信濃をとることは容易でない」とぼやかせます。

昌幸はその幸隆の三男として生まれます。
幼くして信玄の小姓として仕え、武藤家の養子となり武藤喜平衛を名乗ります。
信玄には「武藤喜兵衛と曾根内匠(昌世)は、わが両眼のごとし」と言われ、才能を評価されます。
戦略家としても戦術家としても一流でした。

長篠の戦いで兄二人が戦死すると、真田姓に戻り信濃上田城主となります。
武田家滅亡後は織田、北条、上杉、徳川と次々に主を替え、所領を維持。
しかし、徳川と北条の講和が成立した際に、上野沼田領を北条に割譲するよう指示されると、
「沼田は自力で得た領地」とこれを拒否し、徳川と断交。上杉に属します。
徳川軍が上田に攻め込んでくると、少数の兵を巧みに操り、鳥居元忠、大久保忠世らを
主力とする八千の兵を退け、大いに武名を高めます。
戦後はぬけぬけと上杉から天下人秀吉に鞍替えし、家名の存続を図ります。
秀吉に仕えると「表裏比興の者」と評されますが、
これは大勢力の中を巧みに生き抜いた昌幸への賛辞でしょう。

関ヶ原の戦いでは、長男信幸(このとき信之と名を変える)を東軍につけ、
自分は二男幸村とともに西軍に属します。
徳川秀忠率いる三万八千の徳川家本隊が中山道を進んでくるとこれを挑発し、
二度目の上田城攻めを招きます(上田城は中山道から外れている)
ここで一週間を費やした秀忠は関ヶ原の本戦に遅参するという大失態をおかします。

近年の説では、秀忠軍にはもともと上田城の真田昌幸を攻める意図があったとし、
西方への転進を促す使者であった大久保忠益が大雨で遅参したため、
秀忠への連絡が遅れたということになっています。

いずれにせよ、関ヶ原の戦いは徳川家の主力不在のまま、福島正則、黒田長政、
細川忠興、加藤嘉明ら豊臣恩顧の大名の力を借りての勝利となりました。
(それでも決戦に踏み切った家康の戦才をほめるべきかもしれません)
戦後、これらの大名に恩賞として多大な領地を与えることになり、
家康の天下取りは軌道修正を余儀なくされます。

こうして見ると、第二次上田城攻めでの昌幸の采配が、
歴史に少なからず影響を与えたことがわかります。
 
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