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公式HPの表紙で女の子が怒っていますが、
能力の劣る過去のレアなんてどれだけ需要があるんですかね。
(当たっている人は見かけるので、0ではないのでしょうが…)


夏のリクエスト強化週間!


Rq 001 伊東義祐 【いとうよしすけ】 1512-1585

三位入道。日向都於郡(とのこおり)城主。藤原南家工藤氏の一族と言われる。
何かと話題の宮崎県(日向国)の戦国大名。

1536年、兄の死後の内紛を収めて家督を継ぐと、代々続く島津氏との百年戦争に身を投じる。
1568年、日向飫肥(おび)城を落とすが、
1572年、木崎原にて島津義弘の寡兵に大敗、家臣の多くを失い、以後衰退。
1577年、島津氏への内通者が出て、日向を追われる。

ここまで見れば、島津氏に敗れた九州大名の典型ですが、
彼の人生はまだ続きます。

日向を出ると、親戚にあたる豊後の大友宗麟を頼るが、
豊後への道は敵方にふさがれており、山側を大きく迂回することに。
九州とはいえ、冬場の高千穂越えは厳しく、多くの者が脱落、自害する者も多かった。

翌年、義祐の要請もあって日向に侵攻した大友軍だったが、耳川の戦いで島津軍に大敗。
日向回復の望みは断たれる。
そればかりか、豊後での居心地が悪くなり、伊予の河野氏のもとに移り、のち播磨に移る。
子の祐兵(すけたか)はそこで秀吉に仕えたが、義祐自身は出仕を固辞。
以後、中国地方を転々とし、旧臣のいた周防山口に至る。

1585年、病にかかり、祐兵のいる堺に向うが、船内で衰弱し、
困った船頭によって堺の浜に捨てられる。
偶然、祐兵の家臣に発見されて、看病されるもそのまま死去。七十四歳。

飫肥城を落としたあたりがピークだったのか、
佐土原に京風の豪邸を築いて華美にふけっていたといいます。
金閣寺にならって金柏寺を建てたとか、大仏を建立したとか、
地名まで京風に変えたとか、どこまでが本当でしょうか。
国を滅ぼした人間に対する評価は厳しいようです。

しかし、連年島津氏と戦っていて、一時的にでも優勢を保ったことは
評価してもいいのではないでしょうか。
こんな状況で奢侈にふける余裕があったとは思えないのですが。

秀吉に仕えた子の祐兵が九州攻めで戦功があり、日向に復帰。維新まで続く。
伊東家を復興した子の祐兵の方が波乱万丈という感じがします。
 
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仏教オタクだったぽいよw
トップが日夜お経あげてるだけだと、へこむよなぁ。仏にすがる気持ちもわからんでもないけどw
野垂れ死にってわけじゃなくて、家出みたいな感じなんだよねw
本当はぼけて徘徊してただけかもだけどwww
ぼっこ 2009/07/27(Mon)22:50:59 編集
無題
トップがお経をあげている(?)武装集団もあったわけですがw

息子は大手に再就職が決まったし、自分はトップじゃなくなったし、あとは自由気ままな余生と見ることが出来なくもないw
Rakuna 2009/07/28(Tue)21:35:50 編集
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