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仕事をしないのは無責任ってことだ。
新聞記者の任期も1ヶ月を切ったようですが、すでに一人が脱落。
更新しているといっても、公式発表を転載するだけの輩もいるし、
きっちりと給与に反映させてほしいですね。
中途半端でやめるくらいなら最初からやらない方がまし。
誤爆氏の新聞記事の愚痴のところはほぼ同感。
昔からいる人はほとんど語りませんが、
もっとしんどい状況からでも製造だとかエンチャだとか
いろいろやってきてるのよね。
なんかあるとすぐ仕様がどうのとか言うのは甘い。
戦国人物紹介
さて、今回後編ですが、おまけを一回付けるかもしれません。
016 豊臣秀長 【とよとみひでなが】 1540-1591
(後編)秀吉の最初の家臣とされ、それまでは農民だったという。
二十歳を過ぎてから秀吉に仕えたと思われる。
『信長公記』での初見は1574年の伊勢長島一向一揆攻めである。
(信長が一向宗徒の男女二万人を焼き殺したのはこのとき)
秀長は秀吉の代理として従軍している。
1570年代後半からは、秀吉に属して播磨や但馬など中国方面の攻略に参加。
おもに山陰方面を担当するが、秀吉に従って山陽にも転戦している。
本能寺の変後は四国攻めで大将となり、主力を率いて長宗我部元親を降す。
1587年の九州攻めでは秀吉が西九州を、秀長が東九州を南下し、島津軍を破る。
1589年頃から病を得て療養するが回復せず。1590年、小田原北条氏が降伏。
秀吉の天下統一を見届けて翌年死去。五十二歳。
これといった逸話もなく、表舞台には出ないものの、
内政、軍事、外交に秀吉の片腕として天下統一への貢献度は高い。
気になるのは二十歳前後まで農民だった人物が、
どこでこのような能力を身につけたかということである。
竹中半兵衛(重治)に学んだという説もあるが、
この軍師の活躍はほとんど伝説的で憶測の域を出ない。
兄を初めとした周囲の人々に多くを学んだのであろう。
大和や紀伊は古くからの寺社や公家の領地が多く、難治の地と言われ、
のちに江戸幕府も紀州に御三家の一つを置いているが、治めにくい土地であった。
秀長はこれらの地を任されてよく治めたのであるから、その能力は高く評価してよい。
農民の出であることから、下々の事情に通じていたのかもしれない。
最後に、秀長についての文章で最近目にするのが蓄財の話である。
その死後、居城には部屋一つを埋め尽くすほどの莫大な金銀が残されていたというが、
九州攻めのときに諸将に割高な兵糧を売りつけようとしたとか、
紀伊の材木を売らせて代金を着服したとか、意外な一面もあったようである。
このゲームが終焉を迎えるときまで冬眠しています。
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