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君主新聞は君主選挙関連一色ですが、
長いログを貼り付けてあっても目を通す気にはなれませんw
四つ葉の配布方法やメインの政策など、
簡潔にまとめた記事がほしいなあ…。

戦国人物紹介

この人の場合、秀次事件における秀吉への嫌悪と秀次一族への同情もあって、
評価の見直しが進んでいるため、あえて私がそれに付け加えて書く必要もない。

正式なリリーフだったのか、ワンポイントリリーフだったのか。
秀頼成人までのつなぎとして、秀頼成人後は豊臣家の藩屏として
豊臣家を盛り立てていけば、また別の評価があったと思うが。
そうならなかったのは、秀吉自身の判断ミスとともに、
秀次の行いもあったと思われる。

018 豊臣秀次 【とよとみひでつぐ】 1568-1595
(前編)
秀吉の甥。母は秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)、父は三好吉房。
初め三好康長の養子になったと言われ、三好孫七郎信吉と名乗る。

軍事面の評価は非常に低い。
小牧・長久手の戦いで三河侵攻の総大将となったが、家康の急襲を受けて、
池田信輝(恒興)や森長可ら多数の武将を戦死させる大敗北を喫したためである。
秀吉からは「殺そうと思ったほど」との叱責を受けている。
ただ、この三河侵攻の戦略自体は池田や森の進言を受けて
秀吉が決めたものであり、敗北の最終的な責任は秀吉にある。

この前後、秀吉のお膳立てもあるのだが、小牧・長久手の戦いを除けば、
滝川一益攻め、賤ヶ岳の戦い、紀伊・四国攻め、小田原攻めに無難に戦功を立てている。
徳川秀忠も関ヶ原の遅参という大失態がありながら、二代将軍を務めている。

1591年六月、奥州の九戸政実の乱では総大将として奥羽に赴き、乱を鎮定。
同年十二月、秀吉の子鶴松が死去すると、秀吉の養嗣子となり関白職に就く。
秀吉が朝鮮出兵に熱を入れると、京にあって内政に専念する。
しかし、1593年八月、秀頼が誕生すると、両者の関係は次第に悪化していく。

ここから先は伝聞や噂の類が多く、いちいち挙げればきりがない。
しかし、何らかの不行跡があったことは間違いなく、
学問を奨励、古典を収集し「文の君」と言われる一方で、
「殺生関白」(読みの同じ摂政と殺生をかけた)の異名もあった。

1595年、謀反の嫌疑をかけられ、関白職を剥奪、
高野山に追放されて切腹に追い込まれる。
妻妾、子供、三十余名も京の三条河原で処刑された。
父三好吉房は讃岐に追放され、母ともは翌年出家。
木村常陸介、前野長泰などの家臣も連座し処分される。
伊達、最上、細川ら親交のあった諸大名も追及を受けるが、家康がかばったとされる。
このことは関ヶ原の戦いのときに彼らが家康を支持する一因になる。
 
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昨日から立候補者の受付が始まり、君主選挙がスタートしました。
今期はフェルバーグにも抜かれている状況ですから、
次はアルディアサーバーを活気づけてくれる君主が選ばれるといいですね。

君主選挙となると、いつにもまして匿名の悪意が飛び交うときですがw
政権メンバーとなるなら、それに耐えられないと勤まりません。
批判を恐れて何もしないのでは、どこかの政権と同じになるかもしれません。
公約をよく見て投票しましょう(投票は25日16時から)

来週のメンテでノリコのドロップが変更になるので、一連の騒動も終息でしょうか。
この間、今期政権では(二期前の政権同様)麒麟官他の努力でテロが鎮静化していますが、
こういうことは新聞記者は書かないようです。
騒動が起こったあとでおもしろおかしく書いて、あおるだけなのでしょう。
矢筒を買ってぽこぽこ叩いている人には何ら益するところがありません。

戦国人物紹介

いままで取り上げた中では一番マイナーかも?w

017 豊臣秀保 【とよとみひでやす】 1579-1595?

三好吉房(三位法印一路)の三男。母は秀吉の姉・瑞竜院日秀。
兄に秀次、秀勝(小吉。信長の子で秀吉の養子となったお次秀勝とは別人)がいる。
実名を秀俊とするのは、丹波中納言秀俊(のちの小早川秀秋)との混同であり誤伝。

叔父・秀長の病が重くなると、秀長の娘をめとり養子となる。
1591年、秀長の死後、秀吉の命で跡を継ぎ、藤堂高虎や桑山重晴、横浜一庵らの
補佐を受けて大和、紀伊の両国を治め、従四位参議に任ぜられる。
翌年、従三位中納言となり、大和中納言と呼ばれるようになる。

同年の文禄の役では肥前名護屋まで出陣するが、みずからは渡海せず。
家臣の藤堂高虎らが渡海して戦った。

のち疱瘡(天然痘)が重くなり病死すると言うが、没年には諸説あり、
その死についても異説がある。大和十津川の温泉に療養に赴いたが、
小姓が秀保に抱きつき、いっしょに高所から飛び降りて転落死したともいう。
暴虐だったという説もあるが、はっきりしない。

子はなく、養子とするようなしかるべき人物もいなかったのか、
大和豊臣家は断絶する。秀次が粛清されるのもこのころであるが、
すでに秀頼がおり、秀吉が直系以外の豊臣家は不要と思ったのかもしれない。
しかしこれらのことが一族としての豊臣家の力を削ぐことになる。

三国志、魏の曹操は曹氏、父の実家夏侯氏の力を中心に勢力を伸ばしたが、
次の曹丕が弟の曹植と後継を争ったためか、次第に一族は権力の中枢から
外されていく。一方で、魏の後の晋は地方に配した一族が力を持ちすぎ、
八王の乱という一族の反乱が起こると、混乱の中で異民族が侵入し滅ぶことになる。
 
ヤギが出るのもあと一週間。
赤犬がない人は押さえておきたいところです。
課金せずにFPで九尾というのはきつい…。
あ、くれる人がいる?
それはよかったですねw


■歴史コラム■ 兄弟の天下取り

裏切り、寝返り、御家騒動に下剋上、といろいろあった戦国時代ですが、
そうは言っても、親子や兄弟が一番信用できる間柄だったのでしょう。

兄弟での天下取りというと、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟を思い浮かべます。
都落ちした足利軍は光明天皇(北朝)を立てて九州から上洛しますが、
このときに尊氏が海路、直義が陸路と分かれて東へと進んでいきます。
秀吉・秀長の九州攻めのようです。
このあと、湊川の戦いで楠木正成を敗死させ、再上洛を果たします。
尊氏の政権ができると直義は政務を担当し、軍事を握る尊氏との二頭政治となりますが、
最後は観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれる両派の対立が起こり、兄に毒殺されたといいます。

秀長の評価で、存命であれば秀頼を補佐して豊臣の家名を保ったであろう、
というのも、秀吉が先に死んでいればの話で、秀吉も秀長もともに生きていれば、
近江派と尾張派、あるいは武将派と文吏派など、何らかの派閥に分かれて
争った可能性も否定できません。そうなる前に死んだことは、ある意味、
秀長の名を高めたのかもしれません。

そういえば、NHK大河ドラマ「太平記」の足利直義役も高嶋政伸でしたっけ。
 
 
お買い上げありがとうございます^^





龍尾刀良品が売れましたが、マケ水準が350万Qでしたから、
約50倍といったところでしょうか。


君主DAYの最後の3時間、フルドーピングで狩り続け、
今日も狩り続けて、ようやく剣術が99に。
エンブレムまであと1つ^^;

戦国人物紹介

武田典厩信繁(信玄の弟)にあやかって信繁とつけた例(真田幸村)があったね。

016
 豊臣秀長 【とよとみひでなが】 1540-1591

(おまけ)秀吉の有能な弟として天下統一に貢献したのは間違いない。
大友宗麟に言ったという、「内々のことは千利休に、公儀のことは秀長に相談せよ」
との言葉に秀長に対する信頼のほどがうかがわれる。

しかし、陰での活躍に徹したのか、これといった逸話がないのも事実である。
秀長自身は敗者ではないが、彼の大和豊臣家は次の代で無嗣絶家となり、
豊臣本家も大坂の陣で滅んだため、後世に「自家の歴史として」豊臣家の事績を
語る子孫がいなくなってしまったことが大きい。

1585年の四国攻めでは総大将となるが、長宗我部氏の重臣、谷忠兵衛忠澄が
こもる阿波一宮城を攻めあぐねる。このころの秀吉は体調が思わしくなかったが、
弟の苦戦を聞いて自ら出馬することを考える。
それを知った秀長は兄に「自分に任せてほしい」との書面を送る。
初めて総大将となった秀長の意地、気負いを感じる話である。

島津側の資料に、秀長が九州攻めの際に降伏してきた島津家久(義久、義弘の弟)を
暗殺したとの記録があるが、最近は否定する意見が多い。これも秀長の人柄か。
家久はもともと病にかかっており、病死したというのが正しいようである。

 

仕事をしないのは無責任ってことだ。

新聞記者の任期も1ヶ月を切ったようですが、すでに一人が脱落。
更新しているといっても、公式発表を転載するだけの輩もいるし、
きっちりと給与に反映させてほしいですね。

中途半端でやめるくらいなら最初からやらない方がまし。

誤爆氏の新聞記事の愚痴のところはほぼ同感。
昔からいる人はほとんど語りませんが、
もっとしんどい状況からでも製造だとかエンチャだとか
いろいろやってきてるのよね。
なんかあるとすぐ仕様がどうのとか言うのは甘い。

戦国人物紹介

さて、今回後編ですが、おまけを一回付けるかもしれません。

016 豊臣秀長 【とよとみひでなが】 1540-1591

(後編)秀吉の最初の家臣とされ、それまでは農民だったという。
二十歳を過ぎてから秀吉に仕えたと思われる。

『信長公記』での初見は1574年の伊勢長島一向一揆攻めである。
(信長が一向宗徒の男女二万人を焼き殺したのはこのとき)
秀長は秀吉の代理として従軍している。

1570年代後半からは、秀吉に属して播磨や但馬など中国方面の攻略に参加。
おもに山陰方面を担当するが、秀吉に従って山陽にも転戦している。
本能寺の変後は四国攻めで大将となり、主力を率いて長宗我部元親を降す。
1587年の九州攻めでは秀吉が西九州を、秀長が東九州を南下し、島津軍を破る。
1589年頃から病を得て療養するが回復せず。1590年、小田原北条氏が降伏。
秀吉の天下統一を見届けて翌年死去。五十二歳。

これといった逸話もなく、表舞台には出ないものの、
内政、軍事、外交に秀吉の片腕として天下統一への貢献度は高い。
気になるのは二十歳前後まで農民だった人物が、
どこでこのような能力を身につけたかということである。
竹中半兵衛(重治)に学んだという説もあるが、
この軍師の活躍はほとんど伝説的で憶測の域を出ない。
兄を初めとした周囲の人々に多くを学んだのであろう。

大和や紀伊は古くからの寺社や公家の領地が多く、難治の地と言われ、
のちに江戸幕府も紀州に御三家の一つを置いているが、治めにくい土地であった。
秀長はこれらの地を任されてよく治めたのであるから、その能力は高く評価してよい。
農民の出であることから、下々の事情に通じていたのかもしれない。

最後に、秀長についての文章で最近目にするのが蓄財の話である。
その死後、居城には部屋一つを埋め尽くすほどの莫大な金銀が残されていたというが、
九州攻めのときに諸将に割高な兵糧を売りつけようとしたとか、
紀伊の材木を売らせて代金を着服したとか、意外な一面もあったようである。
 

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