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長いログを貼り付けてあっても目を通す気にはなれませんw
四つ葉の配布方法やメインの政策など、
簡潔にまとめた記事がほしいなあ…。
戦国人物紹介
この人の場合、秀次事件における秀吉への嫌悪と秀次一族への同情もあって、
正式なリリーフだったのか、ワンポイントリリーフだったのか。
018 豊臣秀次 【とよとみひでつぐ】 1568-1595
秀吉の甥。母は秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)、父は三好吉房。
軍事面の評価は非常に低い。
この前後、秀吉のお膳立てもあるのだが、小牧・長久手の戦いを除けば、
1591年六月、奥州の九戸政実の乱では総大将として奥羽に赴き、乱を鎮定。
ここから先は伝聞や噂の類が多く、いちいち挙げればきりがない。
1595年、謀反の嫌疑をかけられ、関白職を剥奪、
今期はフェルバーグにも抜かれている状況ですから、
次はアルディアサーバーを活気づけてくれる君主が選ばれるといいですね。
君主選挙となると、いつにもまして匿名の悪意が飛び交うときですがw
政権メンバーとなるなら、それに耐えられないと勤まりません。
批判を恐れて何もしないのでは、どこかの政権と同じになるかもしれません。
公約をよく見て投票しましょう(投票は25日16時から)
来週のメンテでノリコのドロップが変更になるので、一連の騒動も終息でしょうか。
この間、今期政権では(二期前の政権同様)麒麟官他の努力でテロが鎮静化していますが、
こういうことは新聞記者は書かないようです。
騒動が起こったあとでおもしろおかしく書いて、あおるだけなのでしょう。
矢筒を買ってぽこぽこ叩いている人には何ら益するところがありません。
戦国人物紹介
いままで取り上げた中では一番マイナーかも?w
三好吉房(三位法印一路)の三男。母は秀吉の姉・瑞竜院日秀。
叔父・秀長の病が重くなると、秀長の娘をめとり養子となる。
同年の文禄の役では肥前名護屋まで出陣するが、みずからは渡海せず。
のち疱瘡(天然痘)が重くなり病死すると言うが、没年には諸説あり、
子はなく、養子とするようなしかるべき人物もいなかったのか、
三国志、魏の曹操は曹氏、父の実家夏侯氏の力を中心に勢力を伸ばしたが、
赤犬がない人は押さえておきたいところです。
課金せずにFPで九尾というのはきつい…。
あ、くれる人がいる?
それはよかったですねw
■歴史コラム■ 兄弟の天下取り
裏切り、寝返り、御家騒動に下剋上、といろいろあった戦国時代ですが、
兄弟での天下取りというと、足利尊氏・直義(ただよし)兄弟を思い浮かべます。
秀長の評価で、存命であれば秀頼を補佐して豊臣の家名を保ったであろう、
そういえば、NHK大河ドラマ「太平記」の足利直義役も高嶋政伸でしたっけ。
龍尾刀良品が売れましたが、マケ水準が350万Qでしたから、
約50倍といったところでしょうか。
君主DAYの最後の3時間、フルドーピングで狩り続け、
今日も狩り続けて、ようやく剣術が99に。
エンブレムまであと1つ^^;
戦国人物紹介
016 豊臣秀長 【とよとみひでなが】 1540-1591
(おまけ)秀吉の有能な弟として天下統一に貢献したのは間違いない。
しかし、陰での活躍に徹したのか、これといった逸話がないのも事実である。
1585年の四国攻めでは総大将となるが、長宗我部氏の重臣、谷忠兵衛忠澄が
島津側の資料に、秀長が九州攻めの際に降伏してきた島津家久(義久、義弘の弟)を
仕事をしないのは無責任ってことだ。
新聞記者の任期も1ヶ月を切ったようですが、すでに一人が脱落。
更新しているといっても、公式発表を転載するだけの輩もいるし、
きっちりと給与に反映させてほしいですね。
中途半端でやめるくらいなら最初からやらない方がまし。
誤爆氏の新聞記事の愚痴のところはほぼ同感。
昔からいる人はほとんど語りませんが、
もっとしんどい状況からでも製造だとかエンチャだとか
いろいろやってきてるのよね。
なんかあるとすぐ仕様がどうのとか言うのは甘い。
戦国人物紹介
さて、今回後編ですが、おまけを一回付けるかもしれません。
016 豊臣秀長 【とよとみひでなが】 1540-1591
(後編)秀吉の最初の家臣とされ、それまでは農民だったという。
二十歳を過ぎてから秀吉に仕えたと思われる。
『信長公記』での初見は1574年の伊勢長島一向一揆攻めである。
(信長が一向宗徒の男女二万人を焼き殺したのはこのとき)
秀長は秀吉の代理として従軍している。
1570年代後半からは、秀吉に属して播磨や但馬など中国方面の攻略に参加。
おもに山陰方面を担当するが、秀吉に従って山陽にも転戦している。
本能寺の変後は四国攻めで大将となり、主力を率いて長宗我部元親を降す。
1587年の九州攻めでは秀吉が西九州を、秀長が東九州を南下し、島津軍を破る。
1589年頃から病を得て療養するが回復せず。1590年、小田原北条氏が降伏。
秀吉の天下統一を見届けて翌年死去。五十二歳。
これといった逸話もなく、表舞台には出ないものの、
内政、軍事、外交に秀吉の片腕として天下統一への貢献度は高い。
気になるのは二十歳前後まで農民だった人物が、
どこでこのような能力を身につけたかということである。
竹中半兵衛(重治)に学んだという説もあるが、
この軍師の活躍はほとんど伝説的で憶測の域を出ない。
兄を初めとした周囲の人々に多くを学んだのであろう。
大和や紀伊は古くからの寺社や公家の領地が多く、難治の地と言われ、
のちに江戸幕府も紀州に御三家の一つを置いているが、治めにくい土地であった。
秀長はこれらの地を任されてよく治めたのであるから、その能力は高く評価してよい。
農民の出であることから、下々の事情に通じていたのかもしれない。
最後に、秀長についての文章で最近目にするのが蓄財の話である。
その死後、居城には部屋一つを埋め尽くすほどの莫大な金銀が残されていたというが、
九州攻めのときに諸将に割高な兵糧を売りつけようとしたとか、
紀伊の材木を売らせて代金を着服したとか、意外な一面もあったようである。
このゲームが終焉を迎えるときまで冬眠しています。
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