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アル鯖ではロイズさんが新君主ですね。おめでとうございます。
大臣時代、一緒でしたし、その後の説明会などでもがんばっていたので、
2ヶ月間君主任期を全うされることを期待しています。

君主DAYは、バスタードソード200本準備して疲れましたw
ラスト3時間でどれだけクアルの斬鉄が取れるかですね。
スキルレベルが上の人も頑張っているので、負けないようにしないと^^;

秀吉の天下取りの初期を支えた人物を四人紹介します。
この人の場合、これだけ気骨のある人物なのに、あっさり戦死してしまうのは解せませんが。

戦国人物紹介

020 中川清秀 【なかがわきよひで】 1542-1583
 
瀬兵衛。初め摂津の池田勝正(勝政)に仕えるが、やがて荒木村重とともに台頭。
1571年、摂津が混乱すると摂津三守護の一人、和田惟政を討ち取ったという。
和田惟政といえば、室町幕府最後の将軍足利義昭と行動をともにし、
信長にも重用された人物である。

そのときの逸話である。
荒木村重は所領が近く争いが絶えなかった和田惟政の首に五百石の懸賞をかけた。
惟政の首を取れば五百石を与えると書いた高札を立てたのである。
その高札に自分の名前を書きつけたのが清秀である。
自分が惟政の首を取ると世間に宣言したのである。
そしてその通り、清秀は惟政の首を取った。

ある人が尋ねた、「どうして惟政をこうもたやすく討ち取ったのか」と。
清秀は答えた、「惟政はなかなかの大将であるから、物見(偵察)の兵だけを信じず、
必ずみずからも先陣に出てくるであろうと」
「それで合戦の始まる前に敵陣近くに隠れて待っていると、案の定、
惟政が出てきたので、躍り出て槍を合わせて首を取ったのだよ」

荒木村重が将軍と信長が対立する中で信長に属すると、清秀も信長に従った。
村重が摂津を与えられると、清秀も摂津茨木で四万石余を与えられたという。

しかし、ここで転機が訪れる。1578年の村重の謀叛である。
村重は突如、信長方を離れ、毛利や本願寺らの反信長方に属してしまう。
村重は信長に弁明しようとするがそれを留めて謀反させたのが清秀ともいうが、
清秀自身は織田軍が攻めてくると、高山右近とともに織田軍に降伏してしまう。
一説には清秀の家臣の一人が本願寺側に兵糧を売っていたというから、
自分で謀反の原因を作っておいて、さらに謀反を勧めておきながら、
自分だけは先に降伏してしまう困った人物ということになる。
信長に降伏すると、子の秀政に信長の娘を配されるなど、厚遇される。

1582年、本能寺の変後の山崎の戦いでは秀吉方に属して戦って戦功をあげた。
勝利後、織田信孝(信長の三男、名目上の総大将)は清秀の手を取って、
「今日の功、いつの世にかは忘れん(忘れない)」と涙を流して言ったが、
秀吉は輿に乗りながら「瀬兵衛骨折り骨折り(おつかれちゃ~ん)」と言って過ぎて行ったという。
清秀もこれにはむっと来て「はや筑前守(秀吉)天下を掌にせんと思う色、
すでに面に顕れたり」と言い捨てたという。
(早くも秀吉は天下を手の内にしようという考えが表に出たか)

1583年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に属して最前線の大岩山の砦を守るが、
佐久間盛政の攻撃を受けてあっけなく敗死。

子の秀政が家を継いだが、朝鮮出兵時に鷹狩りをしていた際に朝鮮側の伏兵に
討たれて死んでしまう。
家臣は驚き、「(秀吉に)ありのままを申し上げたら、ご機嫌を損ねて、
中川家は滅んでしまう」と考え、「要害の地に城郭を構えようとして
みずから出てふさわしい地を探していたところ、朝鮮の伏兵に遭って戦死しました」
と報告、清秀の忠節もあり、なんとか秀政の弟秀成への相続が認められた。
秀成は播磨から豊後に所領を移されるが、関ヶ原の戦いで東軍に属し所領安堵。
子孫はそのまま同地で廃藩を迎える。
 
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共感したり発見したり、そこに楽しみを見出していくわけですが。

一番最初は「先鋒」でないかい?
と中学生が言っていましたw

019 豊臣秀頼 【とよとみひでより】 1593-1615

関ヶ原の戦いから書いていこう。
この戦いでは東西両軍とも「豊臣軍」としてお互いの打倒を目指して戦った。
東軍は上杉征伐に際して豊臣家より資金や食糧を与えられており、
けっして家康の個人的な軍隊ではない。
西軍・豊臣軍と東軍・徳川軍の戦いではないのである。

しかし戦後処理に当たっては家康が中心となり、大名の加増や除封は
家康の意に沿って行われた。家康が天下の実権を握ったのである。
とはいえ、この時点では家康も主君である豊臣家を討つわけにはいかない。
大義名分がないまま簒奪をしても他の大名たちの支持は得られないのである。

そこで家康は巧妙に朝廷工作を進める。
豊臣政権の枠を外れて、新たに幕府という権力機構を作ってしまうのである。
こうすれば幕府の名のもとに全国支配を進めることができる。
豊臣家に対する配慮も抜かりない。将軍就任後、孫である千姫を秀頼に嫁がせた。
これは秀吉が生きているときの約束だったが、
履行することで、豊臣方の家康に対する敵愾心をそらせようとの考えである。

二年後の1605年、家康と秀忠は大軍を率いて上洛。
家康は秀忠に将軍位を譲る。これからは徳川の幕府が続くという意思表示である。
一方、豊臣方も朝廷に奏請して、秀頼の官位を内大臣から右大臣に進めている。

その後、高台院(秀吉の正室)を通じて、秀頼の上京を促すが、豊臣方はこれを拒否。
家康もこの時点での敵対は避けたかったのか、松平忠輝(家康の六男、秀忠の弟)を
将軍名代として大坂に派遣している。

それからの家康は朝廷との関係や国外との関係でも実権者として振舞い始めており、
名実ともに天下人としての体裁を整えていった。家康は辛抱強く待った。

1611年にようやく二条城で家康と秀頼の会見が実現する。
七十歳の家康が若い秀頼を見て開戦を決意したというがどうか。
家康としては戦わずして豊臣家が降伏すれば最善と思っていたはずである。

前田利家の妻まつのように、淀殿が人質として江戸に赴き、
秀頼も江戸へ参勤し、大坂からの国替えも拒まなければ、
秀頼の妻千姫は将軍秀忠の娘である。
幕府下の一大名として生き残ったはずである。

しかし、一般には淀殿が強硬に反対したと言われているが、
豊臣方は幕府側の提案を受け入れることはなく、
些細な口実から開戦へと向かうことになる。


次回はしばし考え中です。
豊臣家臣をいくつか書いたのでそこに行くかもしれません。

 
フォーチュンクッキーでついたBADマークがまだ消えないんですけど…。
20日(水)のメンテで消すはずだったんじゃ…。

今週は宇喜多秀家でしたね。
豪姫(前田利家の四女、秀吉の養女)の旦那様、
というところから入った人も多いかもしれません。

なかなか興味深い人物です。
お父さんは戦国の梟雄・宇喜多直家(暗殺やら何やらで敵将を討ちまくった人)ですが、
秀家自身はさわやかな青年武将に育ちました。

なんだけど、この人、家臣の統率力がなかったのよね。
キリシタン問題で家中に対立が生じると収拾できず、
多くの家臣が宇喜多家を出て行ってしまいます。
あろうことか、これらの家臣は関ヶ原の戦いでは東軍に身を投じます。

関ヶ原の本戦では実質的な主将として奮戦しますが、
戦力低下の影響もあったのでしょう、敗退して戦場を離脱し、
薩摩の島津氏のもとまで逃れます。
三年後、島津氏・前田氏の懇願もあり死罪は免れ駿河に幽閉されます。
のち、息子らとともに八丈島に流罪となり、約五十年近くを島で過ごします。

1655年、徳川四代将軍家綱の代に八丈島で死去。
子孫は明治まで八丈島で暮らします。

新聞記者のみなさんおつかれさまでした。
脱落者も少なく、最後まで書き続けられた方が多かったんじゃないでしょうか。
次回の記者さんにも期待しています。

報酬はいくらくらいが適切なんでしょうかね。
リアル1ヶ月で1億Qでも、個人的には少ないと思います。
情報量や更新数にもよりますけど。


019 豊臣秀頼 【とよとみひでより】1593-1615

1593年、大坂城で生まれ、のち伏見城に移る。秀吉が死去すると大坂城に入るが、
以後、大坂城を出たのは1611年に二条城で家康と会見したときだけである。
このときは父とは違って「巨体」だったいう話があるが、
両者が具体的にどのような言葉を交わしたのかは伝わっていない。
(大坂城にこもって、大した運動もせずに、食べてばかりいれば太りもすると思うが)

家康は豊臣家家臣の立場から独立して新たに別の政権(江戸幕府)を樹立しており、
豊臣家は、いわゆる幕藩体制と言われる江戸幕府の枠組みの外にいたことになる。
ゆえに、豊臣家の大坂藩というものは存在しない。
(なお、大坂の陣後に数年間だけ松平忠明が在城したことがある。その後は幕府直轄)

二重公儀体制と言われるものだが、家康が将軍となってからも、
福島や加藤ら豊臣恩顧の大名などは年始に当たってはまず大坂の秀頼のもとへ伺候してから、
将軍へ挨拶することを慣例としており、将軍側もそれを黙認していた。

豊臣家は幕府の支配体制のもとにないために、そう簡単には処分できないのである。
幕府がこれを克服する-最終的には武力で討ち果たす-には十年以上の歳月を必要とした。

秀頼は1603年に内大臣、1605年には右大臣となっている。これは家康よりは下だが、
その後継者秀忠よりも早い官位昇進であり、また昇進の早さは摂関家にも劣らない。
朝廷は豊臣びいきと言われるが、武家同士を競わせるというのは、
源平のころからの朝廷の常套手段である。
家康、秀忠、秀頼の官位昇進には朝廷の思惑もうかがえる。
 
17日(日)21時から、ラクド国の1周年記念で製造イベントをやるとのことなので、
参加してみます。

3人1チームで、剣・槍・斧のLv.30武器(ダマスカス・鉄拳・戦斧)を
それぞれ依頼で製造して性能を競うというもの。
S2結晶体など豪華賞品が当たるかもなので、興味のある方はぜひ。

ラクド国HP
http://www.usamimi.info/~rakudo/
以上、勝手に宣伝終わりw


戦国人物紹介

約1ヶ月ぶりの復活です。この人から行ってみましょう。

019 豊臣秀頼 【とよとみひでより】1593-1615

幼名は拾。右大臣。豊臣秀吉の子。母は浅井長政の長女淀殿。
淀殿の母は信長の妹お市の方であり、秀頼は信長の姪の子に当たる。

大坂城を出たのは二回しかない引きこもり。
亡父の約束で嫁いできた将軍の娘(いとこ)は放置するが、
大坂城の女中たちに手をつけて十代で子供を二人も産ませる。
浪人衆が集まってきて幕府との戦争をおっぱじめてしまい、
最後は浪人衆を統率できずに敗北、自害に追い込まれる。

この人については書きづらい。

この戦国人物紹介を書くにあたっては、普通は参考文献を読んで逸話などから
その人物に対するイメージをふくらませていくのだが、秀頼については個人的な
逸話や発言がほとんどないのである。
それゆえに、どうも主体的な意思が感じられないし、主体的な意思を示すこと自体、
ほとんどなかったのではないかと思ってしまうのである。
大坂城の奥で何を考えていて、どう行動したのかよくわからない。
徳川への臣従を拒んだのも最終的には秀頼の意思なのか、淀殿の意思なのか、
どうもはっきりしない。

もちろん、残されている記録が少ないというのもある。
滅んでしまった人々の事績はなかなか残らないのである。

 
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