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ようやく狩りに行く気が出てきたー、
といっても製造職の方です。
エリクサーでステータスを調整して、
ラッキークローバーを消費しようと考えています。

(製造職+エリクサーで狩りっていまごろな気もしますがw)
製造職で狩りをしようとするときのステ振りですが、
まずは生命力重視で…何もしないとHP42しかないのw

騎乗動物(トラ)あり、変身なし。
武器はダマスカス(通常品)のE+8(火)、火の守護精霊ありです。
火エンチャしていてラッキーw



物理命中率重視(約98%)でHP1132ですが、
これで要塞もいけます(バラシャはクリが痛い)
悪臭効果を付けないと厳しいですけどね。
寝ている守令を引っ張ってきて支援を仰ぐとなお楽ですw

戦国人物紹介

順番を変えて三成家臣の島左近からにします。
大谷刑部(ぎょうぶ)は次回で。

左近は関ヶ原で死んでいない、という方は隆慶一郎の『影武者徳川家康』をどうぞ。
作者は『花の慶次』の原作である『一夢庵風流記』を書かれた方です。

014
 島左近 【しまさこん】 ?-1600?

実名は勝猛(かつたけ)が一般的だが、当時の記録では清興(きよおき)。
左近は通称。もと大和の筒井順慶に仕え、松倉右近重信とともに「右近左近」と称された。
ちなみに、松倉重信は島原の乱のときの島原領主・松倉勝家(重治)の祖父に当たる。

順慶の養子定次が伊賀に転封されると浪人。
その後、豊臣秀長、その養子秀保に仕えるが、再び浪人する。
しかし、すでに勇名は知られていたらしく、
所領四万石の石田三成が一万五千石の高禄で召し抱えたという。
その分、兵士を雇えばいいのではと思うかもしれないが、
指揮官クラスの武将はどうしても必要なのである。
また三成には不足していた「武名」を補う必要もあったであろう。

ただし、豊臣秀保の死は1595年(または1594年)であり、
この頃の三成は近江佐和山城主として十九万石余を領しており、年代が合わない。

三成が左近を召し抱えたときの逸話はこうである。

浪人していた左近は近江に行き、高宮のそばに庵を作って隠棲していた。
三成は近江水口に所領を与えられていたことから、
同じ近江に住む左近を無理に招き、客人として遇した。
その後、三成が秀吉と面会したときに、秀吉からたずねられた。
「今回加増されてから、何人の武士を召し抱えたか」
三成は「島左近という者を一人召し抱えただけです」と答えた。
秀吉が「島左近といえば、わしも知った名である。よほどの待遇をせねば
お前のところにはおるまい。いったいいくらの知行を与えているのか」とたずねると、
「私にいただいた四万石のうち、一万五千石を与えております」と答えた。
これを聞いた秀吉は笑って「主従の知行にこれほど差がないのも珍しい」と言われた。

のち三成は近江佐和山に移り、十九万石余を領した。
左近にも加増しようとしたが、左近は「たとえ五十万石の大名となられても、
私はいまの知行で十分です。下々の者に与えてやってください」と固辞したという。

年代的に合わないので、そのまま受け取るわけにはいかないが、
当時の人々の考え方をうかがい知ることはできよう。

左近は近江佐和山城と並んで「三成に過ぎたるもの」と唄われたが、
その通り、三成は左近の献策をたびたび退けており、
左近の知略を使いこなしていたとは言い難い。

関ヶ原の戦いの前日には、家康の美濃赤坂着陣で動揺する西軍の士気を鼓舞するため、
東軍部隊を挑発、杭瀬川の戦いで、東軍の中村一栄、有馬豊氏らの軍を破っている。
本戦では東軍主力を相手に奮戦するも、黒田長政の鉄砲隊の銃撃に遭い負傷、後退。
戦死したと思われるが首は挙がらず、生存したという伝承もある。

この戦いにおける左近の「かかれ」の号令はすさまじかったらしく、
後年の黒田家の家臣の述懐では「いまも耳から離れない」と言われたほどだった。
また、のちに黒田家の家臣たちが若い家臣たちに関ヶ原の戦いの様子を
伝えようとして、左近についても語ったが、
左近の装束については語る人によって様々で一致しなかったという。
これも左近の奮闘ぶりを物語っている話である。
 
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録画しておいた20日のNHK大河ドラマ「天地人」見ました。


・東北戦線と関ヶ原本戦を交互にやるもんだから、どうも集中できない。

・一話だけしか見ていないのでなんだが、敗者を扱うと、どうも見た後にすっきりしない。

・三成は捕縛直前、兼続は突撃の瞬間、で終わっているので、すっきりしない。

・欧州ではないので、戦国時代の戦いにあのような騎兵突撃はない。

・大坂城とか関ヶ原の戦場とかCGで表現されているのはわかりやすい。

・あと、上杉領(会津の部分)が想像以上に広いのには驚いた。


ほかにも気になる点はたくさんあったのですが、このへんで。

小早川秀秋がそれっぽくて、次回も活躍しそうなので、

来週も見るかもしれないw


連休中のボーナスタイムと株式再公募を控えている中、

物価水準以下の材料はぽつぽつ買っていますが、相場の変動が激しいですね。

よく見ておかないと高いのをつかまされてしまうかも。
関ヶ原の戦いに間に合ったぞ~w

最近は石田三成として紹介される肖像画が変わってきているんですよね。
かつては月代(さかやき。額から頭の中央にかけて髪をそる)をそって、
後ろで小さく髷(まげ)を結んだ、いかにも小賢しい茶坊主、
といった印象の肖像画(個人蔵)だったのですが、
最近は頭巾をかぶり、右手に書物を持ち、眼光も鋭い肖像画(龍潭寺蔵)で
紹介されることが多いようです。評価しようという向きも少なくはありません。

ただ、この人の不人気ぶりは在命中からのもので、
小栗旬をもってしても変えようがないかとw

013 石田三成 【いしだみつなり】 1560-1600

直江兼続とは同じ年の生まれ。
私がそらで生没年を言えるのは信長(1534-1582)と三成だけである。
治部少輔。石田治部(じぶ)と言えば三成のことである。近江佐和山城主。
三献の茶の逸話で有名であり、子供のころから小才は利いたらしい。

家康の敵役としての位置づけは大坂の陣における真田幸村と同じなのだが、
江戸時代から現在を通じて彼の評価、人気は低い。
しかし、官僚としての能力は当時の日本でもトップクラスで、
仮に家康に仕えていたとしても内政面で実績を残していたことは間違いない。

ただ、官僚としての隙のなさが、不人気の理由の一つである。
その一方で、島津や佐竹など一部の大名には検地の際にお目こぼしをしており
(石高の過少申告…石高が多ければその分軍事の負担も増える)、
このあたりの「えこひいき」な部分も不人気の理由であろう。
島津や佐竹は恩義を感じただろうが、政権のためを思っての行動だとしても、
不正が正当化されるわけではない。
こういう人が「正義」を唱えても見苦しいだけなのである。

彼が訴えた正義はあくまでも豊臣家の正義であり、天下の正義ではない。
この当時、多くの大名が望んだ正義は、朝鮮出兵においての報償である。
(正義といっても欲得にまみれている)
朝鮮出兵の事後処理をめぐる豊臣家臣の対立に便乗して
戦いを起こしたのが家康である。
天下を二分して領地の再配分を行い、自らの政権樹立を狙ったのである。
(それが関ヶ原の戦いにおけるいくつかの誤算で必ずしも狙い通りにいかなかった
ことは真田昌幸のときに書いたが、またいずれあらためて触れる)
関ヶ原の戦いはあくまでも「豊臣家臣」同士の争いなのである。

一般に武将派と文吏派の対立などと言われるが、
西軍に属した宇喜多秀家などは朝鮮に渡海して武将派の武将とともに戦っており、
単純に武将派が東軍、文吏派が西軍になったわけではない。
宇喜多秀家は家臣団の対立の影響で、西軍に属することになったが、
そのあたりは諸将もわかっていたのか、敗戦後助命されている。

東軍が絶対的に有利だったのは、「総大将」の家康が、
豊臣政権における最大の実力者(代行者の筆頭)であり
(豊臣政権内において彼に優越する人物は豊臣秀頼しかいないが、
秀頼は大坂城内におり、家臣同士の争いには不関与の立場である)、
何よりも当時、家康自身が自他ともに認める日本最高の野戦指揮官だった点である。
まさに「家康率いる」東軍なのである(ただし、あくまでも豊臣家臣としての行動)

一方で、多くの人が誤解しているが、三成は西軍の総大将ではない。
西軍の総大将は毛利輝元である(大坂城内にいた)
三成は西軍の首謀者の一人ではあるが、戦場においては指揮官の一人でしかない。
西軍諸将の中で優越した立場にあったわけではない。
いわゆる「五奉行」の筆頭だったが、当時は政争に敗れて隠居状態だった。

誤算がつきものの戦場において、東西両軍とも戦力の集中という点においては
失敗も見られるが、特に西軍においてはその傾向が顕著である。
(長期戦を視野に入れていた可能性はある)
関ヶ原の戦場においても各隊の指揮系統は統一されておらず、
戦力として有効に機能していたとは言い難い。

そして、これこそが三成の限界であり本質である。
彼はあくまでも豊臣政権内における官僚の一人に過ぎず(しかも当時は隠居状態)
武名でも他の武将に優越していたわけではない。
(むしろ三成は戦下手と評価されていた)

後世、天下分け目の戦い、と言われるまでの戦いを構築したことは評価できるが、
家康の敵役として並び立たせるのは過大評価であろう。

 
やると言ったのでやるよ~w


「信長の野望・覇王伝」ではあごひげの長いもっさりした印象だったが、
徐々にパワーアップ。「烈風伝」では兜をかぶった凛々しい若武者姿に。
早世したためか意外と女性ファンは少ないので、
先物買いでファンになるならいまのうちかもw

012 蒲生氏郷 【がもううじさと】 1556-1595

(後編)

天下を争うにはいくつか条件があって、一族や譜代の家臣が多いことは
条件の一つになると考えられる。個人の能力が高いだけでは天下は争えないのである。

信長にしても家康にしても、いざというときに頼りになる一族、家臣は多かった。
信長の父も信長自身も二十人近い子沢山だったし、
家康も、十八松平と言われる一族、また酒井、本多、大久保など
譜代の家臣が天下取りを支えた。

秀吉の場合は、織田政権を引き継いで天下を取ったという点はあるが、
秀吉も他人に「豊臣」や「羽柴」を与えて、豊臣ファミリーにしてしまった。
しかし、これら豊臣ファミリーの人々が、秀吉の死後、
豊臣政権の維持にはほとんど役に立たなかったのは歴史が明らかにしている。

氏郷は近江六角氏の旧臣から信長、秀吉に高く評価されて出世したが、
ほとんど彼一人の働きしか伝わっていない。
部隊長クラスの家臣もいたはずだが、早くに改易されたためであろうか。

氏郷も家臣に「蒲生」や「郷」の字を乱発しているが、
氏郷の死後、子の秀行は若かったため、会津から宇都宮に移され、
領地も削減されてしまい、家臣の多くも蒲生家を去ってしまった。
その蒲生家旧臣を雇い入れたのが石田三成である。

氏郷の最期については秀吉や三成、あるいは政宗などによる毒殺説が根強いが、
一年近く患い、当時の名医である曲直瀬(まなせ)道三らにも
診てもらっていることから、毒殺であればそのときに気付くはずである。

氏郷の辞世の句は有名である。

限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風

(限りがあるから、風が吹かなくともいずれ花は散るのに、春の山風は気の短いことだ)
 

茶道に通じ、利休七哲の一人であった。
また高山右近に勧められてキリシタンの洗礼を受けたこともある。
街作りの才能もあり、伊勢松坂や会津若松の基礎は氏郷に負うところが大きい。
松坂も若松も氏郷の命名によるものだが、地名を変えることに抵抗がない、
というのは亡き主君信長の影響であろう。

大坂を大阪に変えたり(「土に返る」のは不吉)、
隈本を熊本(隈は山に囲まれているの意味。
これからの発展を望むにはいい字ではない)に変えたりするような、
ゲンを担いで文字を変えるということはある。

また、いまでは市町村合併で新しい地名がいくつも誕生しているが、
かつては地名を変えることはタブー視されていたのである。

地名についての話はまたいずれ。
 
20日は関ヶ原の戦いらしいので、そこだけ見るかもよ、NHK大河ドラマw
でも、騎馬兵とか歩兵が散開して、ワーッと走っていたら、ダウトですw


おかげさまで、推薦人20名以上確保いたしました。

ありがとうございます。

さらなる上積みを目指しておりますので、

みなさまの応援、引き続きよろしくお願いします^^


まず騎兵についてですが、日本の戦国時代においては、
偵察や伝令、運搬用としての役割がほとんどで、
映像でよく見るような、サラブレッドに乗った騎兵が突撃するなんてことはありません。
日本の在来種はポニーくらいの大きさしかなく(異説はある)、
これで集団突撃というのも無理があります。

また、競馬ファンの方ならよくご存じでしょうが、
馬は育成に時間と費用がかかる一方で、非常に臆病、敏感な生き物で、
矢や銃弾、大声が飛び交う戦場に持ち込んだら、使えなくなってしまいます。
戦国時代では、馬から降りて敵陣に向かうのが常識でした。

ですから、長篠の戦いで、武田の騎馬隊が、織田・徳川の連合軍に
突撃を繰り返すも、鉄砲に敗れ、以後の戦争の方式が一変した、
というのも事実ではありません(これについてはいずれ触れます)

その後、大坂の陣で伊達家の騎馬鉄砲隊(西洋でいうところの竜騎兵に相当するか)
が登場するものの、太平の世が続くと騎兵が発展することはありませんでした。

その結果、300年後の日露戦争では、
秋山好古(よしふる。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊の
参謀・秋山真之の実兄)が一から日本の騎兵隊を作らなければならなくなります。

騎兵については日本と西洋では異なる運用・発展を遂げているので、
興味のある方は調べてみてください。

歩兵もよく考えればわかることですが、
個人がバラバラに走っていたのでは、戦力としては期待できません。
槍を構えて集団で運用してこそ戦力として機能します。
バラバラになるのは潰走となり、敗北を意味します。
でも、槍を持った兵士の集団が、ポコポコ相手を槍で殴る、
という「リアルな」シーンは、大河ドラマの「毛利元就」でしか記憶にないんですよね。

ちなみに、槍兵がぶつかる前に、いわゆる準備射撃ではありませんが、
投石や弓、鉄砲による遠距離攻撃が行われます。
誰だって、自分は傷つかずに相手を攻撃したいものです。

うっかり書きすぎたので、蒲生氏郷の後編は明日!
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