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ランプクエを消化すべく&四つ葉を消費すべく、ひさしぶりに狩りw
004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615
004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615
(後編)
軍記物では、家康が真田の大坂入城を聞いて「親か子か」と使者に尋ねたが、
家康のつかんでいた戸ががたがた鳴るほど震えていたので、
使者が「子の方です」と言ったところ、ようやく安堵したという場面が出てきます。
しかし、大坂の陣までの幸村は「昌幸の子」としてしか知られない存在でした。
この話も後世の創作で、無名の子を引き合いに出すのはおかしいですし、
昌幸のことを恐れていたのなら、配流先でどうなったのかを知らないのは不審です。
このへんが軍記物のおもしろおかしく書いているところなのでしょう。
さて、大坂入城の際の幸村は、歯は抜け髭には白いものが混じる初老の姿だった
といいます。このとき四十八歳(翌年、四十九歳で戦死)
幸村自身は豊臣恩顧というほど豊臣家からの恩恵は受けていません。
幕府から信濃一国を与えるとの誘いにも応じなかったと言いますから、
武人としての死に場所を求めて大坂に入ったのでしょう。
戦術家、いわゆる戦場での駆け引きにかけては、幕府軍を窮地に陥れ、
戦国最強ともいえる島津家から「日本一の兵(つわもの)」と評されたくらいですから、
その能力は疑いようのないところです。
ましてや、譜代の家臣などほとんどおらず、浪人衆を率いての指揮能力です。
高く評価していいと思います。
ただし、戦略家としては、父昌幸の才能をどれだけ受け継いだのかは不明です。
大坂の陣は、戦略的にすでに幕府側が圧倒していました。
難攻不落のイゼルローン要塞にこもっていても勝つことはできないので、
勝つためには敵大将の首を獲りに行くしかないわけです。
ただ、家康は翌年鯛の天ぷらに当たって死んでしまう老人であり、
首を狙うならば、二代将軍として幕府の基礎を固めていた秀忠の方が
幕府に与える損害は大きかったのではないかという気はします。
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子供ができましたw
どんな効果があるのかあとで公式ページ見ておかないと…。
004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615
どんな効果があるのかあとで公式ページ見ておかないと…。
004 真田幸村 【さなだゆきむら】 1567-1615
(前編)
左衛門佐(さえもんのすけ)。実名は武田信玄の弟、
典厩信繁にあやかってつけた信繁(のぶしげ)。
良質の資料で幸村の名が出ているものはいまだ見つかっていませんが、
広く「幸村」で認識されているので幸村を使います。
講談や軍記物での「幸村」が流布したと考えられますが、
なぜ幸村となったのかはいまだに不明です。
「幸」は真田家代々の通字ですが、「村」はよくわかりません。
幸村の娘が伊達政宗の家臣片倉小十郎景綱の息子重長に嫁ぎ、
幸村の子孫も伊達家に仕えたことから、伊達家との関係を挙げる説もあります。
仙台藩伊達家四代目の当主が伊達綱村なので、ここから一文字取って媚びた、
ということなのでしょうが、伊達綱村が初名の綱基から改名したのが1677年。
「幸村」の初出といわれる軍記物『難波戦記』の成立が1672年なので、年代が合いません。
姉村松から取ったという説もありますが、これもはっきりしません。
さて、母は一般に宇多頼忠の娘とされますが、この人の姉妹が石田三成に嫁いでいます。
つまり、真田昌幸と石田三成の関係は、三国志で言うところの、
孫策と周瑜の関係と同じということです(これ以上は書かない)
孫策と周瑜の関係と同じということです(これ以上は書かない)
妻は大谷刑部吉継(吉隆)の娘。上杉家に人質に出されたとすれば直江兼続にも
会っているでしょうから、反徳川の結晶体のような人物と言っていいのかもしれません。
実働は大坂両陣の一年間だけと言っていいのですが、
人気はすでに江戸時代から非常に高いです。
信長、秀吉、家康の天下人と比べても遜色がないくらいです。
ただ、彼ら三人に対しては毀誉褒貶、好き嫌いも激しいのですが、
真田幸村が嫌いという人はほとんどいません。
これには秀頼も含めて判官びいきの面もあるのでしょう。
おまけ
典厩【てんきゅう】
左馬頭(さまのかみ)の唐名(とうみょう、中国風の名称)。
水戸黄門の「黄門」も同様で、黄門(黄門侍郎)は中納言の唐名。
信長の右府(右大臣)、家康の内府(内大臣)、小早川秀秋の金吾(衛門府)なども同じ。
昔は中国風に言うのがおしゃれだったのである。
君主の選挙にはあまり関心がないのでリアルの方ですw
「降ろし」に負けずに自力で解散まで持っていった意地は評価します。
同情票でも入るんかな…。
追い詰められた自民党、本当の力が見られるのかな、と。
有権者には民主党に勝たせすぎないようなバランスが働くことを期待します。
安房守。徳川キラー。真田パパ。
真田家について語るには昌幸の父弾正忠幸隆から始めなければなりません。
昌幸はその幸隆の三男として生まれます。
長篠の戦いで兄二人が戦死すると、真田姓に戻り信濃上田城主となります。
関ヶ原の戦いでは、長男信幸(このとき信之と名を変える)を東軍につけ、
自分は二男幸村とともに西軍に属します。
徳川秀忠率いる三万八千の徳川家本隊が中山道を進んでくるとこれを挑発し、
二度目の上田城攻めを招きます(上田城は中山道から外れている)
近年の説では、秀忠軍にはもともと上田城の真田昌幸を攻める意図があったとし、
いずれにせよ、関ヶ原の戦いは徳川家の主力不在のまま、福島正則、黒田長政、
細川忠興、加藤嘉明ら豊臣恩顧の大名の力を借りての勝利となりました。
(それでも決戦に踏み切った家康の戦才をほめるべきかもしれません)
「降ろし」に負けずに自力で解散まで持っていった意地は評価します。
同情票でも入るんかな…。
追い詰められた自民党、本当の力が見られるのかな、と。
有権者には民主党に勝たせすぎないようなバランスが働くことを期待します。
003 真田昌幸 【さなだまさゆき】 1547-1611
安房守。徳川キラー。真田パパ。
真田家について語るには昌幸の父弾正忠幸隆から始めなければなりません。
歴史上に突如現れる真田幸隆ですが、武田信玄に属すと、
信玄がただ一人、しかも二度敗れた村上義清を、謀略をもって信濃から追い、
武田家家臣としての地歩を固めます。
以後、北信濃を守り、謙信には「真田がいる限り、信濃をとることは容易でない」とぼやかせます。
昌幸はその幸隆の三男として生まれます。
幼くして信玄の小姓として仕え、武藤家の養子となり武藤喜平衛を名乗ります。
信玄には「武藤喜兵衛と曾根内匠(昌世)は、わが両眼のごとし」と言われ、才能を評価されます。
戦略家としても戦術家としても一流でした。
長篠の戦いで兄二人が戦死すると、真田姓に戻り信濃上田城主となります。
武田家滅亡後は織田、北条、上杉、徳川と次々に主を替え、所領を維持。
しかし、徳川と北条の講和が成立した際に、上野沼田領を北条に割譲するよう指示されると、
「沼田は自力で得た領地」とこれを拒否し、徳川と断交。上杉に属します。
「沼田は自力で得た領地」とこれを拒否し、徳川と断交。上杉に属します。
徳川軍が上田に攻め込んでくると、少数の兵を巧みに操り、鳥居元忠、大久保忠世らを
主力とする八千の兵を退け、大いに武名を高めます。
主力とする八千の兵を退け、大いに武名を高めます。
戦後はぬけぬけと上杉から天下人秀吉に鞍替えし、家名の存続を図ります。
秀吉に仕えると「表裏比興の者」と評されますが、
これは大勢力の中を巧みに生き抜いた昌幸への賛辞でしょう。
これは大勢力の中を巧みに生き抜いた昌幸への賛辞でしょう。
関ヶ原の戦いでは、長男信幸(このとき信之と名を変える)を東軍につけ、
自分は二男幸村とともに西軍に属します。
徳川秀忠率いる三万八千の徳川家本隊が中山道を進んでくるとこれを挑発し、
二度目の上田城攻めを招きます(上田城は中山道から外れている)
ここで一週間を費やした秀忠は関ヶ原の本戦に遅参するという大失態をおかします。
近年の説では、秀忠軍にはもともと上田城の真田昌幸を攻める意図があったとし、
西方への転進を促す使者であった大久保忠益が大雨で遅参したため、
秀忠への連絡が遅れたということになっています。
いずれにせよ、関ヶ原の戦いは徳川家の主力不在のまま、福島正則、黒田長政、
細川忠興、加藤嘉明ら豊臣恩顧の大名の力を借りての勝利となりました。
(それでも決戦に踏み切った家康の戦才をほめるべきかもしれません)
戦後、これらの大名に恩賞として多大な領地を与えることになり、
家康の天下取りは軌道修正を余儀なくされます。
こうして見ると、第二次上田城攻めでの昌幸の采配が、
歴史に少なからず影響を与えたことがわかります。
家康の天下取りは軌道修正を余儀なくされます。
こうして見ると、第二次上田城攻めでの昌幸の采配が、
歴史に少なからず影響を与えたことがわかります。
君主の方はINしてスタンプ放置です。
武将解説の方は800字前後で調整中。
池波正太郎原作の『真田太平記』が1986年にNHKで連続ドラマ化されましたが、
徳川家康は中村梅之助、徳川秀忠は中村梅雀で、この二人は実の親子。
本多忠勝は加藤武。青年武将ではなく、老練なイメージ。
小松姫のエピソードはいくつかあるのですが、性格の一端がうかがえます。
すでに徳川家の重臣である本多忠勝の娘として知られており、
関ヶ原の戦いで真田家は父昌幸と弟幸村が西軍、兄信之が東軍に分かれます。
毛並みの良さと勝ち気な性格もあり、ゲームでは武闘派女性として重宝されるでしょう。
このへんは三国志に比べれば女性武将は作りやすいのかも。
武将解説の方は800字前後で調整中。
002 小松姫 【こまつひめ】 1573-1620
本多忠勝の長女。もと稲姫。大倫院。
本多忠勝の長女。もと稲姫。大倫院。
家康の養女として真田信之(初め信幸。幸村の兄)に嫁ぎ、二男二女をもうける。
池波正太郎原作の『真田太平記』が1986年にNHKで連続ドラマ化されましたが、
このときの配役が絶妙でした。
主人公の真田信之が渡瀬恒彦(言うまでもないが渡哲也の弟)、
主人公の真田信之が渡瀬恒彦(言うまでもないが渡哲也の弟)、
真田幸村が草刈正雄、真田昌幸が丹波哲郎。
徳川家康は中村梅之助、徳川秀忠は中村梅雀で、この二人は実の親子。
ちなみに、中村梅雀は大河ドラマ『功名が辻』でも秀忠役を演じていますが、
このときの家康役は西田敏行。同じく大河ドラマ『八代将軍吉宗』でも親子役でした。
本多忠勝は加藤武。青年武将ではなく、老練なイメージ。
小松姫(稲姫)は紺野美沙子。
小松姫のエピソードはいくつかあるのですが、性格の一端がうかがえます。
すでに徳川家の重臣である本多忠勝の娘として知られており、
嫁ぎ先を選ぶときに、見合い相手を一堂に並べ、髷をつかんで(あるいは扇の先で)
伏せている顔を上げさせたという話があるようです。
その行為に怒って席を立った真田信之に惚れて嫁いだそうですが、
婚儀自体、家康と忠勝の肝いりだったのですから、
いくら徳川家の重臣の娘だからといって、そんな非礼な真似は許されないでしょう。
関ヶ原の戦いで真田家は父昌幸と弟幸村が西軍、兄信之が東軍に分かれます。
昌幸が信濃上田城に戻る途中、小松姫が留守を預かる上野沼田城に立ち寄り
「孫の顔が見たい」と希望しましたが、小松姫は夫がいないのをあやしみ、
昌幸の前に戦装束で現れ、「すでに敵味方に分かれた以上、父であっても
城に入れるわけにはいかない」と断固入城を拒絶したといいます。
城に入れるわけにはいかない」と断固入城を拒絶したといいます。
毛並みの良さと勝ち気な性格もあり、ゲームでは武闘派女性として重宝されるでしょう。
このへんは三国志に比べれば女性武将は作りやすいのかも。
amasiz氏をけしかけておいて、自分で何もしないのも何なので、
日本の戦国時代の武将解説でもしようかなと考えております。
関ヶ原の戦いのときの全国の武将配置・解説については、
すでに公開しておりますので、探していただければ
それらしきものが見つかるかと思います。
その前後に書き溜めていたものがあるので、
PC上を探してみましたが、古いのはすでに10年近く前のファイル…。
これは相当頑張って手を加えないといけないようです。
歴史に興味を持つきっかけくらいになればいいなと思っていますが、
何人続けられるでしょうか…。
君主と関係ないよね、って突っ込みはなしの方向でw
ちと、長さの調整も兼ねて試し書きしてみようw
戦国人物紹介
001 本多忠勝 【ほんだただかつ】 1548-1610
平八郎、従五位下、中務大輔。徳川四天王の一人。
最近のゲームでは強さのあまりロボットになってしまったようですが…。
穂先に止まったトンボが真っ二つになったという名槍「蜻蛉切」を手に
生涯大小五十余度の合戦に臨み、一つの傷も負わなかったという勇将。
体中傷だらけだったという井伊直政とは対照的ですが、これは譜代(本多家)と
外様(井伊家はもと今川家の家臣)という立場の違いもあるでしょう。
信長からは「花も実もある勇士」、武田家からは「家康に過ぎたるもの」、
主君家康からも「誠に我家の良将」と絶賛されます。
小牧長久手の戦いでは数百の軍勢で数万の秀吉勢の前に立ちはだかります。
秀吉はらはらと涙を流して「鉄砲玉で殺すには惜しい名将だ」と鉄砲を
撃ちかけるのをやめさせたほどです。
このへんのイメージは爽やかさと相まって、三国志だと超雲を連想させます。
秀吉からは官位や佐藤忠信(源義経の忠臣)の兜など、贈り物攻勢を受けますが、
家康への忠誠心は少しも揺らぐことなく、かえって秀吉を羨ましがらせます。
徳川家の関東入国後は上総大多喜を与えられ、関ヶ原の戦い後は伊勢桑名に
転じますが、領国経営にもすぐれた手腕を発揮しています。
関ヶ原の戦いでも、本戦に至るまでは軍監として東軍諸将ににらみをきかし、
本戦においても、戦場後方の毛利軍を見て、「合戦が近いのに山に登るのは
戦意がないからだ」とその意図を言い当て、諸将を感心させます。
単に兵卒としての能力だけでなく、軍政、戦術にも秀でていたことをうかがわせます。
日本の戦国時代の武将解説でもしようかなと考えております。
関ヶ原の戦いのときの全国の武将配置・解説については、
すでに公開しておりますので、探していただければ
それらしきものが見つかるかと思います。
その前後に書き溜めていたものがあるので、
PC上を探してみましたが、古いのはすでに10年近く前のファイル…。
これは相当頑張って手を加えないといけないようです。
歴史に興味を持つきっかけくらいになればいいなと思っていますが、
何人続けられるでしょうか…。
君主と関係ないよね、って突っ込みはなしの方向でw
ちと、長さの調整も兼ねて試し書きしてみようw
戦国人物紹介
001 本多忠勝 【ほんだただかつ】 1548-1610
平八郎、従五位下、中務大輔。徳川四天王の一人。
最近のゲームでは強さのあまりロボットになってしまったようですが…。
穂先に止まったトンボが真っ二つになったという名槍「蜻蛉切」を手に
生涯大小五十余度の合戦に臨み、一つの傷も負わなかったという勇将。
体中傷だらけだったという井伊直政とは対照的ですが、これは譜代(本多家)と
外様(井伊家はもと今川家の家臣)という立場の違いもあるでしょう。
信長からは「花も実もある勇士」、武田家からは「家康に過ぎたるもの」、
主君家康からも「誠に我家の良将」と絶賛されます。
小牧長久手の戦いでは数百の軍勢で数万の秀吉勢の前に立ちはだかります。
秀吉はらはらと涙を流して「鉄砲玉で殺すには惜しい名将だ」と鉄砲を
撃ちかけるのをやめさせたほどです。
このへんのイメージは爽やかさと相まって、三国志だと超雲を連想させます。
秀吉からは官位や佐藤忠信(源義経の忠臣)の兜など、贈り物攻勢を受けますが、
家康への忠誠心は少しも揺らぐことなく、かえって秀吉を羨ましがらせます。
徳川家の関東入国後は上総大多喜を与えられ、関ヶ原の戦い後は伊勢桑名に
転じますが、領国経営にもすぐれた手腕を発揮しています。
関ヶ原の戦いでも、本戦に至るまでは軍監として東軍諸将ににらみをきかし、
本戦においても、戦場後方の毛利軍を見て、「合戦が近いのに山に登るのは
戦意がないからだ」とその意図を言い当て、諸将を感心させます。
単に兵卒としての能力だけでなく、軍政、戦術にも秀でていたことをうかがわせます。
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