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できるだけ早く国会を召集して、鳩山を首相に指名すればいい。
それが大多数の国民の声である。
自民党の一部の議員が、指名投票で負けるとわかっていて
「麻生太郎」と書きたくないと言うのは心情的にはわからないではないが、
舛添厚労相が言うようにそんなことは「大事の前の小事」である。
麻生総裁(この人はまだ首相であるのだが)の言うように、
地方の意見も聞いて、時間をかけてしかるべき自民党総裁を選べばよい。

戦国人物紹介

さて、前回の最上義光と取り上げる順番が逆でした^^;

極道の妻、のイメージがあるのはNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で
岩下志麻が演じたからである。

最上家と伊達家が争ったときには、両軍の間に輿で乗り込み、
和睦させたこともある、まさに「鬼姫」である。


009 義姫 【よしひめ】 1548-1623

保春院(ほしゅんいん)。最上義守の娘。最上義光の妹。

最上家は義光の二代前の当主義定のときに伊達稙宗の攻撃を受け敗北、
稙宗の妹を迎えて和睦するが、以後伊達家の影響下に置かれる。
義定は子のないまま没したため、甥の義守が家督を継いだが、
これも伊達稙宗の承認があってのことである。
伊達家の内部紛争である天文の乱に奥州が巻き込まれると、
最上義守は伊達稙宗の側に立って参戦している。

このように伊達家の影響が強い中で伊達輝宗(稙宗の孫)に嫁いだ義姫が、
実家である最上家の地位向上を考えたとしても不思議ではない。
初めは長男政宗を親最上派に育てようとするが、うまくいかず、
次に二男小次郎を育てるも、夫輝宗が早々に引退して家督を政宗に譲ってしまう。

小次郎は小田原参陣の直前に政宗に殺されたと言われる。
(幼名竺丸。「政道」という説があるが、二十歳を超えていたにもかかわらず
いまも実名不詳。元服していなかったとすれば当時としては異常である)

義姫は政宗の毒殺を図ったため、最上家に帰されたと言われるが、
実際に最上家に戻ったのはこの四年後である。

兄義光の死後、最上家が改易されると居場所がなくなり、
政宗を頼り伊達家に戻る。このときにはすっかり和解していたようである。

実家のために働くのか、嫁いだ家のために働くのか。

美濃のマムシこと斉藤道三の娘・濃姫(帰蝶)は信長に嫁ぐが、
その際、道三は娘に短刀を渡してこう言った。
「信長が噂通りのうつけなら、この刀で寝首をかいてこい」
しかし濃姫は「この刀はいつか父上に向けられるかもしれませんよ」と返したので、
道三は「さすがマムシの娘よ」と喜んだという。

お市の方は、兄信長が越前の朝倉義景を攻めたとき、
夫の浅井長政が背後から織田軍を攻撃しようとするのを知って、
両端を結んだ袋に小豆を入れて信長に届け、浅井軍が攻めることを知らせたという。
これは実家のために働いた例だが、小豆の袋の暗号に気付いた兄妹をほめたものか。

政略結婚で嫁いだとしても、主体性なく過ごしていたのでは、嫁の役目は勤まらない。

 

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戦国人物紹介


暗殺を繰り返した因果応報、と言ってしまうと身も蓋もありませんが…。


妹の義姫とともにダークな兄妹である(ファンの方には失礼)
「信長の野望・天翔記」では他家の武将を暗殺することもあった。
能力が高いため、有能な武将まで暗殺されることもあり、
武将コレクター(人材フェチ)なプレイヤーだと
リセットさせられることもあったような…。


008
 最上義光 【もがみよしあき】 1546-1614


源五郎。右京大夫など。出羽山形城主。
関ヶ原の戦いでは上杉家の猛攻を防いだことから、
戦後加増を受けて五十四万石(諸説あり)の大名となる。


足利氏の一族斯波氏(そのうちの奥州探題を務めた斯波氏)の分かれで、
羽州探題を世襲した家柄。一時は伊達家の傀儡(かいらい)となったときもあるが、
義光の父義守の代にはある程度の自立を果たした。


義守は傲岸不遜な長男義光を嫌い、二男義時に家督を継がせようとする。
家臣の進言で家督を継いだ義光だが、策謀をめぐらして次々と義時派を粛正していく。
また、伊達政宗の母義姫の兄であるが、妹に政宗を毒殺させようとしたこともある。


小田原攻めのあとは秀吉の後継者・関白秀次に娘を側室として差し出す一方で、
家康にも二男家親を仕えさせるという抜け目のない外交を展開するが、
後年これがあだとなる。


秀次に差し出した娘は、秀次が自害したときに、他の側室・子女とともに
処刑されてしまうのだが、その後も最上家には不運が続く。


発端は義光の二男家親が家康に仕えたことである。
義光は長男義康を差し置いて家親を後継にした方が
幕府の受けがいいと考えたが、そのために義康と対立。
義康は高野山にこもったが、1611年に帰国しようとしたところを
義光によって暗殺されてしまう。


1614年、義光の死後、家親が最上家を継ぐが、三年で死去。
これも一族に暗殺されたと言われる。
その後は家親の子義俊が後を継ぐが、重臣間での対立が激化。
幕府に裁定を求めるが、結局は所領没収(領地返上とも)となり、
一万石のみが与えられることとなった。
しかし、義俊が若くして死去すると、その子義智が幼かったため、
さらに五千石を削られて、大名から転落、幕府の交代寄合となった。


最上家と言えば御家騒動、といった感じだが、
当主の後継者決定がまずかったことに加え、
重臣たちが後継者ごとに派閥を作って争ったのも原因である。
重臣間の対立を収められなかった点は評価が落ちる。


隣の伊達家において、伊達輝宗がさっさと隠居して
政宗に家督を譲った件とは対照的である。

 
今後の紹介予定

009 義姫 最上義光の妹、伊達政宗の母
010 直江兼続
011 上杉景勝
012 蒲生氏郷
013 石田三成
014 大谷吉継
015 島左近
016 豊臣秀長
効果があるのか、ないとわかっていてもするのか、
いまだに候補者名や政党名を連呼する宣伝カーが走っていきますが、
少なくとも、「野党」が存在できる現代の日本というのは、
それだけで平和であることは間違いありません。

かつては「反対勢力」というものは存在すら許されず、
どちらかが滅亡するか降伏するまで争いが続きました。

豊臣家も淀殿を江戸へ人質に送り、大坂から大和郡山あたりへの
転封を受け入れれば、生き延びる可能性はあったかもしれません。

007
 伊達政宗 【だてまさむね】 1567-1636

幼名は梵天丸。梵天(ぼんてん)は仏教の神様の一人。
藤次郎。「政宗」の名は九代大膳大夫政宗にあやかってつけたもの。
九代政宗は鎌倉公方と敵対するほどの実力を有し、
周辺の大名は競って服属したという、伊達家中興の祖である。
先祖と同じ名前をつける例はあるが、やはり珍しい。
(ほかに九州平戸の松浦鎮信、鹿児島の島津家久などがいる)

最近では英語を話したり、女の子の設定だったりするらしい。
いまでは言葉だけが残っているが「伊達者」の語源となった人である。
数あるエピソードからはユーモアというか、茶目っ気のようなものも
感じられて、現代人でも親近感がわく。

さて、前回のコラムでもふれたが、奥州はあちこちで縁組が行われており、
伊達家も大崎、葛西、相馬、蘆名、二階堂、田村、最上、岩城、佐竹など
多くの大名と婚姻、養子関係を結んでいた。
伊達家自体が安泰ならば大きな戦乱はなかっただろうが、
逆に、当の伊達家が内乱状態になると、奥州全土を巻き込んでの
戦乱となってしまうのであった。

そんな奥州で政宗が引き起こしたのが、
小出森城の撫で斬りと言われる虐殺事件である。

1584年、小浜城主であった大内定綱は、いったんは政宗に誘われて
伊達家服属を誓うが、翌年約を違えて政宗に敵対。
政宗は定綱に味方した小出森城を攻めると、
城兵に加え、女子供、犬まで皆殺しにしたという。
敵対した者に対するこの仕打ちは奥州を震撼させた。

虐殺と言うと織田信長や豊臣秀吉を思い浮かべる人も多いが、
この人もこういうことをしているのである。
信長や秀吉だけを取り上げて残虐だ(しかも現代の感覚で)、
と論じるのは公平ではない。

複雑に絡み合った親戚関係を時に利用し、
時に打破して勢力を拡大していく政宗。
父の死後、仇である二本松城を攻めるも、
佐竹義重や蘆名氏を中心とする反政宗連合軍が
二本松氏(畠山氏)救援のために進軍してくる。
1586年、両軍は人取橋で激突。戦術的には伊達軍の敗北であったが、
最終的に佐竹軍は撤退、二本松城の開城に成功する。
1587年には秀吉から惣無事令(大名間の私戦禁止命令)が出されるが、これを無視。
1589年には蘆名氏、佐竹氏の連合軍と摺上原で戦い、勝利を収める。
蘆名氏を滅ぼし、会津を得た政宗は居城を会津黒川城に移した。

しかし、秀吉が小田原の北条氏を攻めると、秀吉側に参陣。
惣無事令に違反して得た会津領は没収される(のちに蒲生氏郷に与えられる)
政宗本人でなくても「もう二十年早く生まれていれば」との思いはあるだろう。

以後は野心の一端を見せつつも乗り切り、
三代将軍家光の代まで存命、幕政の安定に寄与した。

 
いきなり伊達政宗をやるのもなんなので、予備知識として。
奥州では随一の名門。

■歴史コラム■ 奥州の覇者・伊達氏

伊達氏の初代は藤原氏の血を引き(北家山陰流)、
常陸真壁郡伊佐庄中村に住んでいた常陸介朝宗と言われている。
1189年、源頼朝が奥州藤原氏を攻めたときこれに従い、
戦功として伊達郡を与えられると、朝宗自ら移住し、伊達氏を名乗ったという。

その後、七代行宗が南朝方として活躍。北畠顕家らとともに
一時は足利尊氏を九州まで追い落とすことに成功する。

その孫に九代政宗が登場するが、この人は役職から大膳大夫政宗と呼ばれる。
伊達氏中興の祖と言われ、のちの十七代政宗の名は
この人にあやかってつけられたものである。
九代政宗は諸豪族を下し上洛、足利義満に拝謁している。
以後も中央とは密接に関係を通じており、将軍家から一字を拝領することが
通例となっているが、これは伊達氏の財力がものをいったことは言うまでもない。

十四代稙宗は『塵芥集(じんかいしゅう)』という武家法を制定。領国統治に力を入れる。
また、子女が多く、他家に養子や縁組に出しているが、
これらの勢力を背景に奥州守護職として独自の動きを目指す。
二男実元を越後守護の上杉定実の養子として送り込もうと計画、
さらに娘婿の相馬氏への領土割譲を図るが、
長男晴宗がこれに異を唱えると、奥州は諸大名を巻き込んでの
大乱となってしまうのである(天文の乱)
この抗争は最終的に晴宗が勝利、稙宗は幽閉されてしまう。

晴宗も子輝宗と対立しかけるが、それを察してか隠居。
輝宗は最上氏、相馬氏との戦いを続けるが、
四十一歳の若さで子政宗に家督を譲って隠居してしまう。
祖父、父の争いを見てきたせいもあるが、政宗と弟との兄弟間でも
家督争いが起ころうとしていたためでもあろう。
以後、本格的に政宗の時代が始まる。

さて、隠居した輝宗であったが、伊達軍が二本松城を攻めると、
講和のために訪れた城主二本松義継に拉致される。
激怒した政宗が追撃するが、義継は輝宗を連れたまま自領内に逃げ込みを図る。

諸説あるが、国境の阿武隈河畔で輝宗は義継に殺され、義継も政宗に殺される。

輝宗が義継もろとも銃殺するよう命じ、政宗が泣く泣く発砲を命じたシーンで有名。
火縄のついた銃を持ったまま追いかけるのも不自然だが。
 
順番から行くと、次が伊達政宗。
そのあとは、義姫、最上義光、直江兼続、上杉景勝、
といったところです。

前にも書きましたが、このブログのコンセプトが少し変わりました。
加えたと言った方が適切かもしれません。


歴史の話をしよう!


さて、歴史に関する文章を書くときは、念入りに資料を読み込んで、
きっちりとした文章を書くようにしているのですが、
今回はやや書き方を変えています。
人物について先にぱっと思いついたイメージで筆を走らせ、
あとから修正していくという感じです。
人物の一生や事績について知りたいなら本を読むか、
ネットで探せば済む話で(便利だが真偽は吟味すべき)、
ここではそういうところでは得られない情報を提供できればと思っています。
これがその一。

その二。
と言いつつ、歴史入門者にも親しみやすい内容を。
すでに現在、歴史好きという人も、導入部分(きっかけ)はどこかにあったはずです。
学校の授業かもしれませんし、本やゲームかもしれません。
三国志が好きだったけど、日本の戦国時代や幕末もおもしろそう、
そんな入り方もあるかもしれません。
ここを読んで歴史に興味を持ってもらえればうれしいです。
基本は戦国時代(~江戸初期)の人物解説ですが、
話をそこにとどめるつもりはありません。

その三。
ネットという媒体を使っていることで、
みなさんからコメントをいただけます。
これでさらに話題が深まるんですよね。
専門的なコメントを求めているわけではありません。
素朴な感想、疑問でもいいんです。
そこで出てくる、物事(人物や戦いなどなど)に対する
とらえ方のブレを楽しみたいと思います。
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