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「死に株」の再公募キター!

運営さん、いい仕事するじゃないw


第七期の君主選挙に立候補しています。

推薦受付期間は、
9月21日(月)23:59
までです。
推薦よろしくお願いします。


で、アルディアは今回、以下の4カ国が再公募の対象です。

9月22日(火)17時~ポガメ(18時から抽選)
9月22日(火)19時~ナルト(20時から抽選 ※公式HPのは誤記)

9月23日(水)14時~アンド(15時から抽選)
9月23日(水)18時~クワリティー(19時から抽選)

…えーと、これって、4回申込ができるってことですよねw

当たったらまた材料が買えるかしら…。


該当国は防衛上購入する必要も出てくるのでしょうか。

そのあたりの攻防も楽しみですね(今回は該当国ではないので見学)


012 蒲生氏郷 【がもううじさと】 1556-1595

(前編)

幼名は鶴千代、忠三郎。初名は賦秀(ますひで)。
飛騨守。洗礼名はレオン。秀吉に仕えてからは氏郷と改める。

関ヶ原の戦い後、上杉景勝が除かれた会津の地に復帰したのが蒲生氏である。
(このときの当主は氏郷の子秀行)
蒲生氏と言えば氏郷であり、今回は彼について取り上げる。

蒲生氏は近江の六角氏に仕えていたが、信長が攻めてくると降伏。
氏郷は人質として出されるが、信長に才能を認められ、
信長の娘冬姫をめとることになる。

本能寺の変後はいち早く秀吉に属し、九州攻め、小田原攻めなどで
戦功をたて、戦後は会津四十万石余を与えられる。

このとき、「小さくても中央に領地があれば天下に旗をあげられるものを」と
涙したというが、早世を惜しんだ後世の人の創作であろう。
関東の家康、奥州の政宗、越後の上杉らに対する抑えとして期待されたのである。

奥州で起こった葛西・大崎の一揆では裏に政宗の煽動があることを看破して
秀吉に報告。弁明のため政宗が金の十字架を立てて上洛したのはこの時である。
さらに南部氏からの独立を図った九戸政実の乱を鎮圧、
これらの功により加増され、九十二万石を領した。

約二十年で人質の身から九十万石の大名へとスピード出世を遂げた氏郷だが、
領地を与えられるということは、それだけの軍役(戦争のときに
兵を出す義務)を果たさなければならない。
常に新規に家臣を雇わねばならず、家臣団の編成には苦労したと思われる。

そんな苦労をしのばせる逸話がある。
氏郷は、新しく仕えた家臣には、「戦場で鯰尾(なまずお)の兜をかぶって
先頭を進む武者がいるから、その者に負けぬよう働け」と言った。
ある家臣がその人がどんな人か、と思って戦陣に加わると、
鯰尾の兜の武者とは氏郷自身であったという。
家臣が感激して奮戦したのは言うまでもない。

もう一つ。秀吉が語ったと言われる逸話は次の通りである。
仮に信長公が五千、氏郷が一万の兵を率いて戦えばどちらが勝つか、
とたずねた。誰も答えられないので、秀吉は言った。
信長公の勝ちであろう。
そのような戦いで蒲生軍から兜付きの首が五つ取られたとすれば、
その中に必ず氏郷の首も入っている。
一方で、信長公の軍で四千九百人が討ち死にしたとしても、
信長公は討ち死にしていないだろう。大将が早く討ち死にした方が負けだ、と。

九州攻めや小田原攻めでも、前線に出て槍働きをする話が伝わっているが、
新しい家臣が多い中では大将みずから先陣に立って指揮をとる必要があったようだ。
ただ、どうも匹夫の勇という感じがする。一部で非常に高く評価する向きはあるが、
兵に将たる器ではあっても、将に将たる器ではないという印象である。

 
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「ネタ(で立候補)」と明言している人もいるので、

推薦人受付でどれだけ絞られるかわかりませんが、

15日20時の時点の立候補者数が、

エナレット6名、アルディア12名、ヨウギク13名、フェルバーグ15名、

となっております。

明日16日(水)18時から
推薦受付期間と
なっております。

無効推薦2名より、有効推薦1名。

複数アカウントをお持ちの方はお気を付けください^^;


さて、第二期の記者さんの活動も終了のようです。

3ヶ月と長い任期でしたが、最後まで続けられた方はおつかれさまでした^^

ほぼ毎日更新される方、絵が印象的だった方(記事も秀逸)、

ネタ記事な方など、いろいろいらっしゃいましたが、

なかなか楽しめたのではないでしょうか。

第三期記者の投稿は明日からのようですが、

各鯖、何人の記者が誕生するのか、

そして、何人が最後まで続けられるのか。

注目していきたいですね。


ひさびさの戦国人物紹介。

小栗旬・石田三成が生きているうちに石田三成まで書けるかな?w


011 上杉景勝 【うえすぎかげかつ】 1555-1623

不識庵謙信の姉・仙桃院(せんとういん)の子。
幼名卯松(うのまつ)、喜平次(きへいじ)、初名長尾顕景(あきかげ)。

実父・長尾政景はいくつかある長尾家の中の上田長尾家の当主。
謙信とはたびたび対立したため、謀殺されたとも言われる。

直江兼続に振り回された一生である。
謙信があのような死に方をしなければ、長尾家の総帥として終わったと思われるが…。
最近では謙信の後継者ではなく、養子ですらなかったという説まである。
歴史は勝利者によって書かれていくので、真相は闇の中である。

同じ養子の上杉景虎は北条氏の出身だが(氏康の七男)、
当時の例を見れば、他家の者が家督を継ぐというのはありえないことではない。
景虎には長尾政景の娘が嫁いでおり(景勝とは義理の兄弟ということになる)、
子もいることから、景虎が上杉家を継いでもおかしくはないのである。

このあたり、形勢不利と見た景勝側が先に挙兵し、
春日山城の本丸と金蔵を占拠したと考えられるが、
越後国内は景勝派と景虎派に完全に分かれてしまい、
内乱(御館の乱)が完全に終結するまでには一年以上かかってしまう。

さらに恩賞に不満を抱いた新発田重家が独立を図る。
伊達氏や蘆名氏の支援を受けた反乱は長期化。
秀吉の力まで借り、七年をかけてようやく平定している。

内乱で多くの家臣、兵を失った上杉家の戦力は大きく減退。
織田軍の侵攻を許すなど、領土の失陥も大きかった。
また武田家と結んだ(武田家は北条家と断交した)ことは、
のちに武田家の滅亡に影響を与える。

さて、景勝は軍神と畏れられた謙信の跡を継いだ重圧のためか、極端に無口で、
常に眉間には深いしわが刻まれ、こめかみには青筋が浮き出ていたという。
眉間は「踊る大捜査線」シリーズの室井慎次(柳葉敏郎)をイメージしてもらえばよい。

生涯笑ったのは一度だけという。
飼っていた猿が彼を真似て殿様のように振る舞っているのを見たときに、
顔が笑っているように見えた、と家臣が証言しているのだが、
これも実際に笑ったかどうかは定かではない。

船が定員オーバーで沈みそうなときがあったが、
無言で杖を振るとお供の者たちは泳げない者まで一斉に川に飛び込んだという。
ほかにもいくつか逸話があるが、家臣たちには非常に恐れられていたらしい。

このへんは神秘のベールをまとって権威づけをした
養父の例をよく見ていたといえるかもしれない。
 
運営さんの粋なはからいと、安倍さんのがんばりで、

今月も始まりました、黒べぇグランプリ。


当然、ヤンパはトップを狙っていきます。

それだけでなく、対戦国もきっちりぼこぼこにしますんで、よろしくねw

今回は新たに参加した国々がトップ争いに食い込んできて、

ぜひ一戦交えたいと思いました^^


にしても、鯖内で盛り上がっているイベントをなぜ政権は支援しないのでしょうか?

というか、そもそもこの盛り上がりに気付いているのでしょうか。

ほかにもいろいろ変えたいことはあるので、

次回君主選挙、立候補を予定しています。

先週末、ぼっこ先生にあおられたからではありませんw

それ以前から考えていた話です^^;


■歴史コラム■ 直江兼続のおまけ

三国志の話が少し出たので。
諸葛孔明も蜀という地方政権の宰相に過ぎず、
不世出の天才軍師などというのは過大評価です。
(この人の軍事的能力に対する厳しい評価は最近特に多い)
漢の高祖(劉邦)に天下を取らせた張良くらいでないと、
その評価はふさわしくありません。


孔明について言えば、諡(おくりな)が「忠武侯」ということからもわかるように、
中国で昔から評価されていたのは主君への忠誠心です。
劉備は死に際し、孔明に「もし後継ぎの劉禅が補佐するに足る人物であれば、
これを補佐してほしい。もしそうでなければ、君自らが帝位につけ」とまで言うのですが、
孔明はこれに対し、涙を流して「全身全霊、命をかけて忠節を果たします」と答えます。
そして漢復興のスローガンを掲げて北伐を繰り返すも、果たせず戦場に倒れます。
誰もがこの姿に感動してきたのです。


(劉備の遺言は美談と言えば美談なのだが、この人物鑑定に優れた百戦錬磨の
おっさんのことだから、その気もないのに言っておいた可能性はある。
そして、感動した孔明は劉備・劉禅父子に使い潰されて過労死してしまう)


ただ、見方を変えると、もともと蜀が中国全土を統一するというのは、
荊州を失った時点で国力の差から無理がありすぎで、孔明の北伐というのも、
各地からの寄せ集め集団である蜀の国内対策であったという見方もあります。
国内をまとめるために、外に敵を作って攻撃する。現代でもある話です。
とすれば、人事面での能力には疑問符が付きますが、
北伐を繰り返しても国力を維持した、内政家としての孔明の評価は
高くてもいいのかもしれません。

 
「信長の野望」では古くから登場しているが、
当初の顔グラフィックはそれほど美系ではなかった。
しかし、シリーズを重ねるごとにパワーアップ。
最新作ではきっと妻夫木クンのファンでも満足できる顔になっているはずだw

010
 直江兼続 【なおえかねつぐ】 1560-1619

(後編)

戦争も外交も二流以下だったが、それ以上に問題だったのは後継者についてである。

この時代、家臣を持つ者の最大の務めは家名を残すこと、
ようは子供を残すことである。御家が潰れれば、家臣は路頭に迷うしかない。
子は授かりものとはいえ、養子を取ることも可能であったのであり、
主従とも後継者を残す意識が希薄だったとしか思えない。

兼続は正室お船の方との夫婦愛でも知られるが、側室を持たず、
実子の景明は生来病弱で父に先立って病死。
養子に迎えた本多政重(家康の謀臣本多正信の子。正純の弟)とは
のちに縁組を解消し、最終的に直江家は断絶している。

主君の景勝も同じである。
正室菊姫は武田信玄の娘だが、菊姫との間に子はなく、
長男にして唯一の実子定勝が生まれたのが1604年、景勝四十九歳のときである。
男色説、正室との不仲説などいろいろあるが、根拠には乏しい。
ともかく、子供がいなければ即断絶の可能性もある中で実子が男子一人だった、
という一門の脆弱さは、三代綱勝が子のないまま死去したことで上杉家を危機に直面させる。
通常であれば無嗣断絶となって当然であったが、
最終的には甥に当たる綱憲が末期養子となって上杉家を継ぐことを許された。
ちなみに、綱憲の父は「忠臣蔵」で有名な吉良上野介義央(よしなか)である。
「忠臣蔵」では、赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲が「父を助けねば」と
兵を出そうとして家老たちに止められたというシーンが登場する(これは後世の創作)

この結果、上杉家の領地はさらに半分の十五万石に減らされ、
財政はさらに悪化することになる。
財政再建は鷹山(ようざん)の号で知られる九代上杉治憲の登場を待たねばならない。
(この人も九州秋月家からの養子)

 
1 ○
2 ○
3 ××○
4 ○
5 ×××××○
6 ○

5はピコハン入れてからも4連敗、ピコハンなしで一発成功…
ということで、クラウ・ソラスの高級品で下400という品ができたので、
いま流行りの(?)火エンチャにチャレンジ。
…あっという間に剣の材料がなくなりましたw

該当の新聞記事は読んでいないので一般論として。
政権批判をすることは構わないと思います。
そして政権を構成するのは君主であり、大臣なのですから(他に白と羅眼)、
政権批判が特定の個人を批判することになるのは、むしろ当然と思いますが。
新聞が批判精神を失うことの方を危惧します。

舛添氏は次の次を狙っているんでしょうかね。
いまは誰がやっても同じというか、敗戦処理に追われて、
独自色が出せる場面ではなさそう。

戦国人物紹介

さて、「ミラージュ」な小説が流行ってから十年くらいたつと思いますが、
その当時、一部の女性の間で熱狂的に支持されたのが今回の主人公です。

大河ドラマは見ていません。
どのように描かれているのかは知りませんが、
取り上げられるくらいですから、評価されているのでしょう。
ですが、この人は戦争も外交も二流以下で、
主君の上杉景勝はそのために少なくとも二回は死にかけています。

三国志(演義と正史)ほどではないにしろ、
日本の歴史上の人物や事件も近年、再評価、再検証されるようになってきました。
この人は評価が上がった人物の一人なのでしょう。
大河ドラマになった今年がピークでしょうが、
この人の能力に疑問を持つ人はいまも昔も少なくありません。

兜の前立が「愛」の一文字ということで、
最近は端午の節句の武者人形としても大人気とか。
ユニフォームに「LOVE」って書いてあったら、対戦相手は引くだろうなあ。
…軍神である「愛染明王」、もしくは「愛宕権現」を表したものと言われています。
謙信の「毘」(毘沙門天)と同じですね。


010
 直江兼続 【なおえかねつぐ】 1560-1619

(前編)

山城守。名はのちに重光と改める。
樋口惣右衛門の子で、直江景綱(実綱)の跡を継ぎ直江氏を名乗る。

関ヶ原の戦いにおける一連の過程を見るに、戦争下手、外交下手としか評価しようがない。
家康の挑発を受けて立ったのは、壮挙というよりは、無謀であって、戦略眼のなさを示している。
(そこまで見越して挑発した家康が一枚も二枚も上手だったということか)
ちなみに、このとき家康に送った「直江状」と言われる手紙は後世の偽作である。

「家康率いる豊臣軍」の会津攻めを招くが、三成らの決起を知った軍勢(東軍)は
下野小山から西へ反転してしまう。しかし、上杉軍は追撃の好機を逃してしまい、
結果的には西軍主力との連携には失敗している。

ただ、真田昌幸や片倉景綱のときにも触れたが、
この当時、多くの人が戦は長引くと考えていたようだ。
秀忠軍の当初の目的は西軍に属する勢力を制圧しながら西へ進むことだったし、
片倉景綱も「上杉と最上が戦って、両者が戦い疲れたところに兵を出せば最上も取れる」
と長期戦を前提とした発言をしている。

多くが長期戦を予想する中で、兼続が取った行動は、東軍主力の追撃ではなく、
旗幟を鮮明にしていなかった最上氏の領地を攻めることであった。
しかし、長谷堂城で最上勢の抵抗にあい、落城させることができずにいるうちに
西軍主力の敗報が届き、撤退を余儀なくされてしまう。
このときの撤退戦での働きが伝わるが、みずからの拙攻が招いた撤退戦である。
(最近はパチスロでもおなじみの前田慶次が奮戦したのもこの戦い)

戦後、上杉家は、取り潰しは免れるという寛大な処置を受けたものの、
領地は百二十万石から三十万石に減封される。
家臣の召し放ち(リストラ)をしなかったことから、
財政は大幅に悪化し、家臣も生活に困窮することになる。

 
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