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君主Wiki、ロイドクエの13番目(罪蜘蛛討伐)、
クエが終わったので更新しようと思ったら、
ひさびさの「Internal Server Error」で更新できずw
Backで戻っても文章は飛んでおり、復元できず。
たった二行ですが思い出すこともできませんでした。
どなたか志のある方、罪蜘蛛討伐クエが終わったら、
コメント更新お願いします。
更新の仕方がわからなかったら文章だけでも送ってくださいw
「最後は~」で始まる二行です。
さて。
006 片倉景綱 【かたくらかげつな】 1557-1615
小十郎。主君伊達政宗に助言する年上の家臣、といった印象だが、
蒲生氏郷や藤堂高虎とほぼ同年代で、
父は米沢の神職だったが、政宗の父輝宗に見いだされ、十歳年下の政宗の側近となる。
その後は参謀として政宗の奥州制覇に貢献。
秀吉は三春五万石の大名に取り立てようとしたが固辞、
関ヶ原の戦いでは、上杉家に攻められた最上家救援の軍議で、
むしろそれまでは美男子ぶりが有名で、小早川秀秋が後を追いかけまわした、
という話もあるとか。
若すぎてゲームには使いづらいかもしれないが、
光栄(現コーエー)の「信長の野望・天翔記」では、
数少ない騎馬鉄砲隊の能力を所持。
とはいえ、登場前に天下統一されていた方が多かったかも。
君主Wiki、ロイドクエの13番目(罪蜘蛛討伐)、
クエが終わったので更新しようと思ったら、
ひさびさの「Internal Server Error」で更新できずw
Backで戻っても文章は飛んでおり、復元できず。
たった二行ですが思い出すこともできませんでした。
どなたか志のある方、罪蜘蛛討伐クエが終わったら、
コメント更新お願いします。
更新の仕方がわからなかったら文章だけでも送ってくださいw
「最後は~」で始まる二行です。
さて。
真田幸村の娘がこの人の息子、重長に嫁いでいるところから、今回はこの人で。
006 片倉景綱 【かたくらかげつな】 1557-1615
小十郎。主君伊達政宗に助言する年上の家臣、といった印象だが、
蒲生氏郷や藤堂高虎とほぼ同年代で、
天下人の信長や秀吉からはほぼ一世代下になる。
父は米沢の神職だったが、政宗の父輝宗に見いだされ、十歳年下の政宗の側近となる。
有名なのは側近時のエピソード。
政宗は幼くして疱瘡(天然痘)にかかるが、その毒が目に入ってしまい
右の目を失明してしまう。
右の目を失明してしまう。
醜さに気を病んだ政宗は暗く無口な性格だったが、
景綱が小刀を持って右目をえぐり取ったという。
以後は政宗の性格も一変。独眼竜政宗の誕生である。
ただ、政宗本人は終生コンプレックスとしていたようで、
肖像画などでも両目の姿とするよう指示している。
その後は参謀として政宗の奥州制覇に貢献。
人取橋(ひととりばし)、摺上原(すりあげはら)の二大合戦でも戦功あり。
秀吉の小田原攻めについては参陣を主張。戦略眼、見識の高さを示している。
秀吉は三春五万石の大名に取り立てようとしたが固辞、
家康も江戸に屋敷を与えようとしたがこれも固辞。
伊達家一筋であり、陪臣(天下人からみた家臣の家臣)としては極めて優秀である。
西軍に属して危うく取り潰されそうになった隣国の家臣とは大違いである。
スタンドプレーに走って国を危うくするよりは、堅実に国を守った方を評価する。
西軍に属して危うく取り潰されそうになった隣国の家臣とは大違いである。
スタンドプレーに走って国を危うくするよりは、堅実に国を守った方を評価する。
ただ、主君の光があまりに強いため、主人公として取り上げるのは難しいかもしれない。
関ヶ原の戦いでは、上杉家に攻められた最上家救援の軍議で、
最上は犠牲にして、双方戦い疲れた後で攻めればよい、と進言する。
最上家は政宗の母(保春院、義姫)の実家で、
その母が最上家に戻っていることを知っての発言である。
さすがの政宗も顔色を変えて拒否、最上家に援軍を出したという。
えらく合理的である。こういう発言が可能だったこと自体、
彼の伊達家での立場がうかがえる。
1615年、豊臣家滅亡を見届けて、十月に死去。家士六人が殉死。
息子重長も小十郎を称す。
息子重長も小十郎を称す。
真田幸村に見込まれて、娘の於梅(おうめ)を託されたが、
重長が鬼の小十郎と勇武を謳われるのは、
夏の陣で後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相の軍を撃破してからである。
むしろそれまでは美男子ぶりが有名で、小早川秀秋が後を追いかけまわした、
という話もあるとか。
若すぎてゲームには使いづらいかもしれないが、
光栄(現コーエー)の「信長の野望・天翔記」では、
数少ない騎馬鉄砲隊の能力を所持。
とはいえ、登場前に天下統一されていた方が多かったかも。
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ジャイアンツにいたらスタメンは厳しいかもしれないが、
他のチームに行ったら三番は打てるくらいのイメージか。
005 真田信之 【さなだのぶゆき】 1566-1658
伊豆守。父と兄の陰に隠れがちだが、徳川家、しかも秀忠に相当恨まれていながら、
真田家を保った能力は評価していい。
自身、九十過ぎまで長命を保ったことも一因であろう。
関ヶ原の戦い後は自身の軍功と引き換えに父弟の助命を嘆願。
岳父(妻の父)本多忠勝も、家康に対し、助命が受け入れられないなら
「殿と一戦つかまつる」とまで言ったという。婿のことを評価していた証拠である。
長男信吉の系統は上野沼田を継いだが、のちに勤務不良により所領を没収されている。
1681年のことである。徳川家は第一次上田攻めで敗れて約百年後に
ようやく沼田から真田家を除くことができたのである。
二男信政の系統が信濃松代で定着するが、のちに松平定信の二男(幸貫)を
養子に迎えており、ここで松代藩における真田の血は絶えている。
真田幸貫は老中となり(扱いとしては譜代大名)、藩政では佐久間象山を抜擢するなど
名君として知られている。
おまけ そのほかに押さえておきたい真田家の人物
・真田信綱 【さなだのぶつな】 1537-1575
幸隆の長男。昌幸の兄。父とともに武田二十四将に数えられる。
信州先方衆として上杉謙信に当たる。
幸隆の死後家督を継ぐが、翌年長篠の戦いで戦死。
・真田昌輝 【さなだまさてる】 1543-1575
幸隆の二男。北条氏との戦いでは北条氏照を破るなど軍功あり。
長篠の戦いで兄とともに戦死。
長篠の戦いで兄とともに戦死。
・真田大助 【さなだだいすけ】 1602-1615
名は幸昌など。真田幸村の長男。父が高野山麓の九度山幽閉中に誕生。
母は大谷吉継の娘。夏の陣では大坂城内に留められる。
落城の際には脱出を勧められるが拒絶、豊臣秀頼らとともに自刃。
歴史小説は読まなくなりましたが、興味のある方は池波正太郎の『真田太平記』をどうぞ。
前述の通り、NHKでドラマ化されており、DVD版もあります。
学研の歴史群像シリーズでも大坂の陣や、真田幸村を扱ったものがあります。
「3」で加藤清正に甲斐姫ね…。
日本が舞台だと登場武将に困ることはないね…時代までさかのぼれるみたいだしw
黒田官兵衛が悪役っぽいのが気に入らないですがw
この人が関ヶ原の戦いにおいて九州で示した動きは戦術家、戦略家として超一流。
いずれやります。
さて、今回は上杉謙信の後編。
聖将、義将などと言われ、敵だった武田信玄も、北条氏康も自分の死後は謙信を頼れ、
と言っていますから、周りからの評価が彼の本質を表しているのでしょう。
Rq 002 上杉謙信 【うえすぎけんしん】 1530-1578
日本が舞台だと登場武将に困ることはないね…時代までさかのぼれるみたいだしw
黒田官兵衛が悪役っぽいのが気に入らないですがw
この人が関ヶ原の戦いにおいて九州で示した動きは戦術家、戦略家として超一流。
いずれやります。
さて、今回は上杉謙信の後編。
聖将、義将などと言われ、敵だった武田信玄も、北条氏康も自分の死後は謙信を頼れ、
と言っていますから、周りからの評価が彼の本質を表しているのでしょう。
Rq 002 上杉謙信 【うえすぎけんしん】 1530-1578
(後編)
彼の目指していたのは、関東における足利幕府体制の維持、
つまりは、関東管領として関東の治安を維持することで、
関東の大名を支配下に組み入れるという考えはなかったようです。
(そもそも越後国内すら治めきれていない)
しかし、すでに関東管領が補佐すべき鎌倉府、鎌倉公方はなく
(末裔の古河公方を擁立したことはあるが、実質的に機能はしていない)、
そもそもの室町幕府でさえ、1573年、信長によって滅ぼされています。
手取川夜戦で柴田勝家率いる織田軍を一蹴したこともあるのでしょうが、
中央の織田軍は後回しで、関東を重視したというのは、
時代認識の旧さを示しているのかもしれません(現実路線という言い方はできる)
父為景は六十歳半ばまで現役で戦っていましたから、
謙信本人もあと十年余は戦えると思っていたのでしょう。
後継者とされる養子二人については、いまも様々な説があり地位が確定していません。
養子の一人上杉景虎(養父と同じ名前)は北条氏康の七男、北条三郎氏秀と
言われていますが、最近は北条氏秀と名乗った点は否定されつつあります(別人という)
景虎に関東管領職、山内上杉家を継がせ、景勝に長尾家総帥、越後国守を
継がせるつもりだったなどとする分家説(諸説ある)は以前からありますが、
謙信が後継者と目していなかったと思われる景勝が勝利したために、
このへんを明らかにするのは難しいでしょう。
当の謙信が一切言葉を発せないまま死にましたし、
勝利者によって真の歴史は隠されてしまったと思われるからです。
いずれ上杉景勝・直江兼続の項であらためて触れることにします。
死に株削除キターw
再公募はやると言ってやらなかった前例があるので、
あまり期待しないようにしましょう。
プレイヤー比で国も鯖も多いんじゃね?w
先週はリクエスト強化週間だったのに、一人しか書かなかったので、続き。
阿部寛。
で、いいんじゃない?
実父長尾為景、次代上杉景勝は下書きを済ませていますが、
(前編)
不識庵謙信。虎千代、長尾景虎。
父の死後、後を継いだ兄には越後国内をまとめる力量はなく、
・武田信玄とは川中島で五回(諸説あり)も戦うが、
信玄が今川・北条に意地悪をされたときには塩を送って助けちゃうツンデレ(違)
他にも塩を運ぶルートはあり、困ってはいなかったのが実状だが、
・たびたび請われて越後国外まで兵を出している。
関東には十回以上出兵しており頼まれると断れなかったようだ。
・一方で、国内には独立性の高い家臣が多く、時にすねて引きこもりに。
再公募はやると言ってやらなかった前例があるので、
あまり期待しないようにしましょう。
プレイヤー比で国も鯖も多いんじゃね?w
先週はリクエスト強化週間だったのに、一人しか書かなかったので、続き。
今回のは、
阿部寛。
で、いいんじゃない?
いろんな意味で適役かとw
実父長尾為景、次代上杉景勝は下書きを済ませていますが、
さて、上杉謙信となると難しいところです。
これは彼自身、神のごとく振る舞ったところからも来ているのでしょう。
なかなか理解しづらいところがあります。
よく知られているエピソードから探っていきましょう。
Rq 002 上杉謙信 【うえすぎけんしん】 1530-1578
なかなか理解しづらいところがあります。
よく知られているエピソードから探っていきましょう。
Rq 002 上杉謙信 【うえすぎけんしん】 1530-1578
(前編)
不識庵謙信。虎千代、長尾景虎。
のち上杉憲政から一字を与えられ政虎、
のちさらに足利義輝より一字を与えられ輝虎。
長男ではなかったため、幼くして林泉寺に入れられる。
しかし、ここで仏教だけでなく兵法も学んだことが彼の人生を変える。
父の死後、後を継いだ兄には越後国内をまとめる力量はなく、
十四歳で兄の代わりに出陣することになる。
この初陣で見事な勝利を飾ったため、諸将の信望を担い、
のちに兄に代わって長尾氏を継ぐことになる。
・武田信玄とは川中島で五回(諸説あり)も戦うが、
信玄が今川・北条に意地悪をされたときには塩を送って助けちゃうツンデレ(違)
他にも塩を運ぶルートはあり、困ってはいなかったのが実状だが、
謙信の人となりはよく表している逸話。
・たびたび請われて越後国外まで兵を出している。
関東には十回以上出兵しており頼まれると断れなかったようだ。
・一方で、国内には独立性の高い家臣が多く、時にすねて引きこもりに。
家臣の掌握には父同様苦心している。
・1561年、関東諸将の兵十万余を率いて北条氏の本拠小田原城を攻囲。
ただし落とすことはできず、その後、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行う。
このとき、成田長泰が下馬しなかったため、扇で烏帽子を叩き落とす。
これを恥辱に感じた長泰は北条氏に寝返る。
成田氏は藤原氏の名門で、先祖は源義家にも下馬せず挨拶したというが、
謙信は知らなかったようだ。
・1577年、加賀手取川の野戦で、柴田勝家率いる織田軍を一蹴。
戦にはとても強いイメージがあるが、十万の兵を率いても北条氏は攻略できず、
また、川中島でも戦闘には勝利しながら北信一帯の支配は武田氏に奪われている。
・1577年、加賀手取川の野戦で、柴田勝家率いる織田軍を一蹴。
戦にはとても強いイメージがあるが、十万の兵を率いても北条氏は攻略できず、
また、川中島でも戦闘には勝利しながら北信一帯の支配は武田氏に奪われている。
・酒の肴は梅干し。塩を肴に酒を飲むようなものである。
アル中で手が震え、署名できなかったという話もある。
アル中で手が震え、署名できなかったという話もある。
トイレに行ったところ脳卒中で倒れ、そのまま数日後に死去。
・このとき集めていた兵については関東出兵を計画していたというのが通説。
織田軍はいつでも倒せると踏んでいたのだろうが、
関東管領としての職責に忠実(またそこが限界)だったのだろう。
・このとき集めていた兵については関東出兵を計画していたというのが通説。
織田軍はいつでも倒せると踏んでいたのだろうが、
関東管領としての職責に忠実(またそこが限界)だったのだろう。
公式HPの表紙で女の子が怒っていますが、
能力の劣る過去のレアなんてどれだけ需要があるんですかね。
(当たっている人は見かけるので、0ではないのでしょうが…)
夏のリクエスト強化週間!
Rq 001 伊東義祐 【いとうよしすけ】 1512-1585
三位入道。日向都於郡(とのこおり)城主。藤原南家工藤氏の一族と言われる。
1536年、兄の死後の内紛を収めて家督を継ぐと、代々続く島津氏との百年戦争に身を投じる。
ここまで見れば、島津氏に敗れた九州大名の典型ですが、
日向を出ると、親戚にあたる豊後の大友宗麟を頼るが、
翌年、義祐の要請もあって日向に侵攻した大友軍だったが、耳川の戦いで島津軍に大敗。
1585年、病にかかり、祐兵のいる堺に向うが、船内で衰弱し、
飫肥城を落としたあたりがピークだったのか、
しかし、連年島津氏と戦っていて、一時的にでも優勢を保ったことは
秀吉に仕えた子の祐兵が九州攻めで戦功があり、日向に復帰。維新まで続く。
能力の劣る過去のレアなんてどれだけ需要があるんですかね。
(当たっている人は見かけるので、0ではないのでしょうが…)
夏のリクエスト強化週間!
Rq 001 伊東義祐 【いとうよしすけ】 1512-1585
三位入道。日向都於郡(とのこおり)城主。藤原南家工藤氏の一族と言われる。
何かと話題の宮崎県(日向国)の戦国大名。
1536年、兄の死後の内紛を収めて家督を継ぐと、代々続く島津氏との百年戦争に身を投じる。
1568年、日向飫肥(おび)城を落とすが、
1572年、木崎原にて島津義弘の寡兵に大敗、家臣の多くを失い、以後衰退。
1577年、島津氏への内通者が出て、日向を追われる。
ここまで見れば、島津氏に敗れた九州大名の典型ですが、
彼の人生はまだ続きます。
日向を出ると、親戚にあたる豊後の大友宗麟を頼るが、
豊後への道は敵方にふさがれており、山側を大きく迂回することに。
九州とはいえ、冬場の高千穂越えは厳しく、多くの者が脱落、自害する者も多かった。
翌年、義祐の要請もあって日向に侵攻した大友軍だったが、耳川の戦いで島津軍に大敗。
日向回復の望みは断たれる。
そればかりか、豊後での居心地が悪くなり、伊予の河野氏のもとに移り、のち播磨に移る。
子の祐兵(すけたか)はそこで秀吉に仕えたが、義祐自身は出仕を固辞。
以後、中国地方を転々とし、旧臣のいた周防山口に至る。
1585年、病にかかり、祐兵のいる堺に向うが、船内で衰弱し、
困った船頭によって堺の浜に捨てられる。
偶然、祐兵の家臣に発見されて、看病されるもそのまま死去。七十四歳。
飫肥城を落としたあたりがピークだったのか、
佐土原に京風の豪邸を築いて華美にふけっていたといいます。
金閣寺にならって金柏寺を建てたとか、大仏を建立したとか、
地名まで京風に変えたとか、どこまでが本当でしょうか。
国を滅ぼした人間に対する評価は厳しいようです。
しかし、連年島津氏と戦っていて、一時的にでも優勢を保ったことは
評価してもいいのではないでしょうか。
こんな状況で奢侈にふける余裕があったとは思えないのですが。
秀吉に仕えた子の祐兵が九州攻めで戦功があり、日向に復帰。維新まで続く。
伊東家を復興した子の祐兵の方が波乱万丈という感じがします。
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